源氏物語の頃の衣食住―2
源氏物語の色―光源氏の白
光源氏はご存知の通り、紫式部が書いた源氏物語の主人公で、源氏物語の最初に登場する帝である桐壺帝の第二皇子として生まれます。
幼少の時から生れた時から光り輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、「光る君」と呼ばれるようになりますが、亡き生母の桐壺更衣に実家の後見がないことから、臣籍降下して源姓となります。
類まれな容姿と文武にも優れた光源氏は、数々の女性と恋愛を重ねていきますが、中でも生母桐壺更衣に似た藤壺女御と紫の上とは、深い縁を紡いでいくことになります。
ひとたびは宮廷から須磨・明石に蟄居しましたが、都に呼び戻されると臣下として位人臣を極め、我が世の春を謳歌します。
源氏物語の前半と言われる「藤裏葉」あたりまで、公私ともに栄耀栄華を享受し、その名の通り光輝く光源氏が描かれます。
その華やかな光源氏に、紫式部は多くは無彩色で、喪の場面以外は白を多くまとわせます。
「白き御衣どものなよらかなるに直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて」(白い肌着の柔らかに仕立てた上に直衣だけをしどけなくお召しになって)「層木」
「白き綾のなよらかなる、しをんいうなどたてまつりて、こまやかなる御直衣、」(白い綾織物の柔らかいものに、紫苑色のものをお召しになって)「須磨」。
「うすき御直衣、白き御衣の、唐めきたるが、文、けざやかに、つやくとすきたるをたてまつりて」(薄縹色の御直衣に、白い御袿の唐風の織り紋様がくっきりと浮き出て艶やかに透けて見えるのをお召しになって)「藤裏葉」
「白き御衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、「友待つ雪」のほのかに残れる上に、うち散り添ふ空を眺めたまへり。」(白い衣をお召しになって、梅の花をまさぐられながら、仲間を待つ雪がほのかに白く残っている上に新しい雪が散る様をご覧になっていた。)「若菜」
色のない白は、清浄で純粋であるとともに、最も多くの色を包括している至高の色でもあります。
比類ないほど美しく、臣下として最高位にまで上り詰めた光源氏を、紫式部は至高の白という色で人々の完璧な理想像として昇華させたのではないでしょうか。
又、白は光を反射する一番明るい色で、暗い色を引き立てる色でもあります。
紫式部は、そんな白を源氏にまとわせることで、物語の後半「若菜」以降、ひたひたと源氏に忍び寄る闇と苦悩を暗示したのかもしれません。
源氏物語の頃の食生活―主食
源氏物語は衣類や住まいのものに比べ、食事の場面や食べ物の記述は少なめです。
それでも時折、強飯(こわいい)、御粥、水飯(すいはん)、湯漬(ゆづけ)、屯食(とんじき)、などという言葉が出てきます。
当時、米の調理法としては、こしきで蒸す方法と水を加えて煮る方法がありました。
貴族たちがよく食べていた強飯は、うるち米を蒸して作ったもので、今の炊いたご飯よりはずっと硬かったようです。
この強飯に水をかけた水飯や湯をかけた御湯漬なども食べていました。
米を鍋で煮る際、水分が多いと汁粥、少ないと固粥(かたがゆ)が出来ましたが、貴族たちは汁の多い汁粥もよく食べたようです。
固粥は姫粥とも呼ばれ、これが現在のご飯の原型と言われています。
強飯を握り固めたおにぎり状のものを屯食といい、催しの際に下仕えのものにふるまいました。
「ここは、かかる所なれど、かやうに立ち泊りたまふ折々あれば、はかなき果物、強飯ばかりはきこしめす時もあり」(ここはこのような山里ですがこのようにお泊りになる時もあるので、ちょっとした果物や強飯ぐらいは召し上がられる時もある。)「薄雲」
「御粥などこなたに参らせたれど、御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆きたまふ。」(御粥などをこちらで差し上げたが、御覧にもならず、一日中付き添っていらして、いろいろと介抱なさり、心を痛めておられる。)「若菜下」
「人びとに水飯などやうの物食はせ、君にも蓮の実などやうのもの出だしたれば」(供の人びとに水飯などを食べさせ、君にも蓮の実などのような物を出したので)「手習」
「物聞こし召さぬ、いとあやし。御湯漬け」などよろづに言ふを」(親密にお話などなさっておられるので、御湯漬などを差し上げなさる。)「浮舟」
「その日の御前の折櫃物、籠物など、右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服のをりにも数まされり。」(その日の御前の折櫃物や籠物などは、右大弁が仰せを承って調えさせた。屯食や禄用の唐櫃類など、置き場もないほどで、東宮の御元服時よりも多かった。「桐壷」
源氏物語の頃の住まい―寝殿造のつくり
この頃の上流貴族の住まいは、「寝殿造」といわれる建物です。
「寝殿」とは中心となる正殿という意味で、敷地の中央に南面して建つ、その家の主人が起居する建物です。
家族が住む「対の屋(たいのや)」は、神殿の東西北に配置され、渡り廊下である「渡殿(わたりどの)」や「透渡殿(すきわたどの)」で結ぶ構造でした。
多くは主人の正室が北の対の屋に住んだので、「北の方」といえば貴人の正室のことを指すようになりました。
寝殿の南には庭や池が作られ、美しい眺めを楽しめるようになっていました。
東西の対の屋からは「中門廊」という廊下が南に延び、その先には遊興や管弦などを楽しむための「釣殿」や「和泉殿」が作られました。
敷地の回りは「築地塀」と呼ばれる土塀で囲み、東西北にそれぞれ「門」があり、東西のどちらかの門が正門でした。
また当時の貴族は牛車に乗って移動したので、牛車と牛の車庫である「車宿」が正門の南側にありました。
又、主家に使える従者が詰めるところとして、寝殿の外側に「侍所(さむらいどころ)」が配置されていました。
風呂敷で三角巾
今年は能登半島地震が起こったり、航空機の事故が起こったりと、年初から災害や事故のニュースに胸が痛みます。
今は何でもある時代ですが、災害や事故が起こった時、手元に必要なものがあるとは限りません。
怪我や骨折をされた時、包帯や三角巾がなくても、大き目の風呂敷があれば代わりとして使えます。
風呂敷を三角巾のようにする使い方です。
風呂敷の対角の角を合わせて三角形を作ります。
合わせた角がつるす腕の肘に来るように風呂敷を体に当て、腕ではさみます。
下の角を腕をくるむようにして上げて、痛めた方の肩にかけます。
首の後ろで左右の角を真結びします。
ひじの端がずれないようにひとつ結びにすると、解けることなく動けます。
1分で出来る「ふふふふろしき~お使い包み」