源氏物語の頃の衣食住―9
源氏物語の色―花散里の浅縹(あさはなだ)色
花散里は高貴な生まれですが、控え目で温厚な性格で、光源氏の足が長く遠のいても、都から須磨へ隠棲してしまった間も、変わらず源氏に心を寄せ待ち続けた女君でした。
男女の関係は早い段階で終わっていましたが、いつでも優しく迎え入れてくれる花散里を、光源氏は大切にしていました。
そして、栄耀栄華を極め建造した六条院では、花散里に「夏の御殿」を与え住まわせます。
花散里はその後、光源氏に頼まれて、光源氏の息子の夕霧の母親代わりになり、養女となった玉鬘も育て、晩年には夕霧の子どもの面倒もみることになります。
光源氏にとって花散里は、心安らぐ癒しの存在であるだけでなく、子どもたちの養育を任せられるほど信頼に足る女君だったのでしょう。
光源氏は衣選びの場面で、織は優美だけれども派手でない浅縹色で海辺の情景を織り出した布に、濃い臙脂色の掻練の袿を添えて、花散里に贈りました。
穏やかで静かな湖面を思わせる浅縹色は、温厚で控えめな花散里に相応しい、上品で優しい色といえます。
源氏物語の頃の食―椿餅と亥の子餅
平安時代の菓子は主に果物でしたが、特別な時には今の和菓子に近い菓子も食べられていました。
源氏物語の中では、亥の子餅と椿餅が出てきます。
「葵」の帖では、光源氏が葵の上の四十九日を済ませたのち、紫の上と内々に結婚する場面が描かれています。
「その夜さり亥の子餅参らせたり。かかる御思ひのほどなれば、ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる檜破籠などばかりを、色々にて参れる」「葵」
光源氏と紫の上の新婚第二夜が旧暦の亥の日に当たっていたので、紫の上には亥の子餅が供されたのでした。
亥の日に亥の子の形の亥の子餅を頂くことで、万病から逃れ、また多産である猪に因み子孫繁栄を祈ったのでした。
「若菜 上」の帖には、光源氏の六条院で催された蹴鞠の会の後、若い公達達に供された甘味のひとつとして、椿餅が出てきます。
「椿い餅、梨、柑子やうのものども、様々に筥の蓋どもにとりまぜつつあるを、若きひとびと、そぼれとり食ふ」「若菜」
梨や柑子(コウジ)などの果物と一緒に、椿餅が並べてあるのを、若い公達達が楽しそうにつまむ様子が描かれています。
当時はまだ砂糖は貴重でほとんど使われておらず、この頃の甘味は、水飴と甘葛(あまずら)というツル科の植物の樹液を煮詰めて作られる甘葛という甘味料でした。
またこの頃は中に餡が入っておらず、道明寺粉で作る生地に甘葛煎で甘みをつけた形状だったようです。
まだまだ口に出来る人は限られていましたが、平安時代には今の和菓子の萌芽が見られます。
源氏物語の頃の住まい―野宮神社
天皇に代わって伊勢神宮に仕える皇女たちは斎王と言われ、斎王が過ごす御所を斎宮と言いました。
斎王に選ばれた皇女たちは、伊勢下向の前に身を清める生活をせねばなりませんでした。
その潔斎をする場として選ばれたのが、嵯峨野の清らかな場に建てられた野宮でした。
源氏物語では、六条御息所が斎宮となった娘(後の秋好中宮)と共に一年間、この野宮で潔斎生活を送ります。
いよいよ伊勢に下る直前に、光源氏は六条御息所に会いにここ野宮を訪ねます。
「はるけき野辺を分け入り給より、いとものあはれなり。秋の花みなおとろへつゝ、淺茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹あはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、ものの音ども絶えだえ聞こえたる、いと艶なり。」「賢木」
六条御息所は光源氏に伊勢下向を引き止められ、ひとたびは心が揺らぎますが、斎王となった娘と共に伊勢に下るのでした。
源氏物語では悲しい別れの地でしたが、いつしか野宮は縁結びや子宝・安産の神様のおわす野宮神社となり、今では女性のパワースポットとして大人気の観光地となっています。
1分で出来る風呂敷バッグ「ふふふふろしき~リボンバッグ」
リボンバッグは、持つと表側に大きなリボンがついているように見える風呂敷バッグです。
本やパソコンなど平たく四角いものを包んで持ち歩くのに便利な包みで、お稽古バッグとかパソコンバッグと言ったりもします。
ふ、ふ、ふ、ふ、ふろしき!
つつんで、むすんで、おでかけ!(フー!)
学校行くのも ふろしき
教科書 ノートに モバイル
下半分かぶせて 三角形
真結び二つで リボン包み
ふ、ふ、ふ、ふ、ふろしき!
つつんで むすんで おでかけ!
なんでもできる おどろき!
フロシキブルに ふろしき!(フー!)