日本の衣食住
神無月
更衣・衣更・衣替・ころもがえ
「衣替え」の風習は平安時代に中国から伝わったと言われています。
日本は四季があり、寒暖の差が激しい気候だったので、衣更えの風習は取り入れやすかったのでしょう。
当時の宮中では、着替えると言う意味の言葉として「更衣」が使われており、天皇の衣の用意や着替えを手伝う女官のことも「更衣」と呼びました。
「更衣」は天皇の居室所にも出入りするので、後には天皇に奉仕する后妃のことも指すようになりました。
そのままだと后妃と着替えの意味が重なってしまうため、風習としての「更衣」は、「衣更・衣替(ころもがえ)」と呼ばれるようになったようです。
当時は旧暦4月1日に冬から夏の装束へ、旧暦10月1日に夏から冬の装束へと衣替えをしていました。
衣更えの際、当時の貴人たちは、装束だけでなく持ち物や室内の調度品なども、季節に合わせ新しくしつらえて、趣味の良さを競ったものでした。
宮中行事であった衣更えは、江戸時代には武家だけでなく、商人や町人にも広がっていきます。
江戸時代は、4月1日から5月4日は袷、5月5日から8月末までは単衣か帷子、9月1日から9月8日は袷、9月9日から3月末の間は綿入れ、と年四回、衣更えをしました。
一見、沢山の着物が必要に見えますが、当時は布自体が高価で、庶民にとっては着物は高級品。
庶民は数少ない着物に、裏をつけたり外したり、綿を入れたり抜いたりして、一年間を通して着回しました。
新品より安くて程度のよい古着を売る古着屋も繁盛しました。
衣更えの時期には、着物を解いて洗い、糊付けをして干してくれる「洗い張り」も流行りました。
明治時代以降、着物から洋装へ変わり、衣更えは政府の定めで、役人や軍人が制服を夏冬年二回替えるようになりました。
最近は世界的な気候変動で、特に夏が長く暑くなっていますが、それでも日本の四季は巡り来ます。
今の時代に合った衣更えをして、季節を心地よく過ごしたいですね。
お月見のお団子
古来、日本では光り輝く月は神そのものと考えられ、平安時代には、月を眺め愛でる行事も生まれました。
月が美しく見える中秋の頃は、秋の収穫の季節でもあります。
月に祈りを捧げる際に供えた収穫物が、次第に米から作ったお団子に変わっていったと思われます。
収穫物の中でも、米は日本人の命を繋いできた貴重な穀物です。
その米から作った上新粉で作るお団子は、人々にとって最上のご馳走だったでしょう。
お月見に供えられるお団子が丸いのは、欠けるところのない満月に、不老不死や豊作など吉祥の祈りを込めたとも、中国の月餅に似せたとも言われています。
旧暦八月の十五夜は里芋の収穫の時期でもあり、芋名月とも呼ばれ、里芋も一緒にお供えをしました。
その名残なのか、関西のお月見団子は紡錘形で漉し餡をのせた、里芋を模したような形状が多いのです。
又、旧暦九月の十三夜は栗や豆の収穫時期なので、栗名月や豆名月とも呼ばれました。
お団子と共に、ススキをお供えするのですが、何故ススキなのでしょう?
本来は収穫を感謝してのお供えなので、お団子と共にお供えするには、稲穂を飾りたいところですが、この時期、既に稲穂は収穫してなくなっています。
そのため、稲穂が実った形とよく似たススキを代りにお供えするようになったと伝えられています。
元々、ススキは茎の中が中空で、神の宿り場と考えられていて、月の神様をお招きする依り代(よりしろ)でもありました。
またススキの切り口は鋭いため、厄災や悪霊から収穫物を守ってくれる魔除け厄除けとも考えられていました。
日本の秋の風物詩、「お月見」にも稲作が深く結びついていることが分かります。
お供えの三方
三方とは、食品や盃など載せる儀式に使う台で、衝重 (ついがさね) の中の一つです。
折敷(おしき)と呼ばれる盆の下に、直方体の台がついた形で、台の三方向に眼像(くりかた)と呼ばれる穴があいていることから、「三方」と呼ばれます。
檜などの白木製や漆塗りのものもあり、神事や慶事に用いられます。
神事には白木製のものを使い、神饌を載せたり、古代には、高貴な人物に物を献上する際にも使用されました。
月の神様にお団子を供えるお月見にも、歳神様にお飾りを供えるお正月にも三方を使うのは、神様へのお供えを載せるからなのですね。
自転車と風呂敷
自転車でお買い物が気持ちよい季節になりました。
自転車のハンドルに風呂敷の端を結び付けると、風呂敷バッグの出来上がり。
途中のお店で色々買い物したものは、どんどん風呂敷バッグに入れていけば、自転車かごがなくてもOKです♪