源氏物語の頃の衣食住―5
源氏物語の色―葵の上の葵色
葵の上は光源氏の最初の正妻で、父が左大臣、母は桐壺帝の妹君という高貴な生まれでした。
元服したばかりの12歳の光源氏と結婚した時、葵の上は4歳年上の16歳で、年上であることや気位の高い性格から、光源氏とは打ち解けることがなく時が過ぎていきます。
それでも10年ほど経った時、葵の上は妊娠します。
つわりで苦しみ、心細そうな葵の上の様子を見て、光源氏も寄り添うようになり、二人の間で初めて心通う時が生れます。
ちょうどその頃、賀茂祭(葵祭)に斎院の御禊に光源氏が同行するというので、葵の上も牛車で見物に行くと、そこへ光源氏の愛人の六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)も来ていました。
葵の上の家来達はよい場所を空けさせるため、六条御息所の牛車を壊してしまい、衆人環視の中、六条御息所に恥をかかせてしまいます。
この車争いの後から、葵の上は物の怪に悩まされ、床に臥せることが多くなります。
葵の上を心配して見舞った光源氏の目に見えたのは、彼女にとりついた六条御息所の生霊でした。
その後、葵の上は難産の末に男子(のちの夕霧)を産み落としますが、数日後、亡くなってしまいます。
子を宿したことで、やっと光源氏と心を通わせることが出来、これからやっと幸せな時が過ごせると思った矢先のことでした。
葵の上の名前の葵色は、葵の花のやや灰味がかった淡い紫色です。
葵の花は紅、白、ピンク、紫、黄色、など様々な色がありますが、紫が平安の頃から人気で高貴な色だったので、葵色が紫の色合いとなったそうです。
高貴だけれど幸薄く早世したこの女人に名をつける時、紫式部は美しい色ではあるけれど、やや寂しげに感じる葵の花の色を思い出したのかもしれません。
源氏物語の頃の食―紫式部と鰯
源氏物語の「常夏」の帖には、川の鮎や加茂川の石臥などを目の前で調理させて、というような文章があります。
当時の魚といえば、川か琵琶湖の魚で干物や塩漬けがほとんどでしたが、よく食べられたようです。
ところで、「紫式部は大の鰯好きだった」という言い伝えがあります。
平安時代、鰯は庶民の食べ物で、貴族は口にしない魚とされていました。
ところが紫式部は大の鰯好きで、夫宣孝に隠れて食べていたところを見つかり、冷やかされてしまいます。
すると紫式部は即座に、「日のもとにはやらせたまふ石清水(いわし水)まいらぬものはあらじとぞ思ふ」(日本人であれば石清水八幡に詣でない人はいないように、鰯を食べない人もいない)と、歌で言い返したというのです。
この元歌は「八幡愚童訓」にある「日の本にいははれたまふ石清水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ」で、「石清水八幡」に「鰯」をかけて、石清水八幡に参ることと同様、鰯を食べることは当然だ、と切り返した、というのです。
実に当意即妙な受け答えで、紫式部が教養があるだけでなく、頭の回転が速くセンスがいい才女だと分かります。
ただ、このエピソードの出典は、室町時代を中心に作られた『御伽草子』で、そこではこの才女は紫式部ではなく、和泉式部となっているのですが、時代が下り江戸時代の「市井雑談集」や「和訓栞」などでは、紫式部の逸話として紹介されています。
紫式部と和泉式部は、どちらも平安時代の才女ですが、何といっても紫式部の方が有名です。
また宮中奉仕の女官が用いた「女房詞(ことば)」では、鰯は「むらさき」と呼ばれていました。
それらのことが重なり、いつしか和泉式部の鰯のエピソードは紫式部のものとしてすり替わり、後世に伝わってきたのではないでしょうか。
どちらにしても、鰯をはじめとする青魚は、良質のたんぱく質やビタミンA、ビタミンB1などを多く含みます。
又、コレステロールを減らし、血液をサラサラにして動脈硬化を防いでくれる、不飽和脂肪酸のEPAやDHAを沢山含む魚です。
鰯のような青魚を食べると体によいことを、昔の人たちは経験値で知っていたからこそ、「紫式部の鰯好き」が言い伝えられてきたのでしょう。
古来の言い伝えに倣い、私たちも鰯をはじめ青魚を食べるようにするとよいですね。
源氏物語の頃の住まい―源氏物語の二条院
二条院は「源氏物語」の中では、主人公の光源氏の母である桐壺更衣の里宅であり、桐壺はここで亡くなります。
桐壺更衣の死後、光源氏は邸を受け継ぎ、葵の上と結婚した後、改装した二条院に紫の上を迎え入れます。
このことから紫の上は、「二条の院」や「二条の院の姫君」などと呼ばれるようになります。
のちに出世した光源氏が六条院を完成させると紫の上も六条院に移りますが、病に伏せるようになると二条院に移り、最期をここで迎えます。
また明石の君と光源氏の間に生まれた娘君は、幼い頃に二条院の紫の上に引き取られ、紫の上の手で育てられます。
その姫君はのちに明石中宮となりますが、その子の匂宮も、やはり二条院の紫の上に育てられました。
ですので、明石中宮にとっても匂宮にとっても、二条院が里宅ということになります。
二条院は匂宮が受け継ぐことになり、彼は中君を二条院に迎え、共に過ごすのです。
源氏物語の中で二条院という住まいは、光源氏が誰よりも恋しかった亡き母と、誰よりも愛した紫の上が亡くなったところであり、自らと紫の上と我が娘と我が孫が生れ育った邸であったわけです。
源氏物語の中で、二条院は光源氏とその係累の生老病死を見届ける、大切な住まいだったことがわかります。
紫式部が源氏物語を書いていた頃、二条院として描かれる場所には、「二条殿」と呼ばれた藤原道長の邸の一部が建っていたそうです。
「元の木立,山のたたずまひ,面白き所なりけるを,広くしなして,めでたく造りののしる」(もとの木立や築山の配置は趣きがあったが、池の幅を広くし立派な造営であると大変な評判が立った。)「桐壷巻」
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