和の暮らし
十二月師走
十二月 師走
12月は、一年の最後の月として、果ての月、暮古月(くれこづき)、極月(ごくげつ)、限月(かぎりのつき)などと呼ばれますが、 師走(しわす)が一番なじみ深い呼び方でしょう。
「師走」の語源としては、年末は師(先生)も忙しく走り回るから、という説をよく聞きますが、実ははっきりせず、「師走」という字は当て字のようです。
「しわす(しはす)」という言葉の由来としては、歳(とし)から「し」、果つから「はす」、合わせて歳が果つので、「しはす」となったとか、四季の果てる月の意味の「四極(しはつ)」だとか、こちらも色々な説が伝えられています。
本来、十二月を「しわす」とはなかなか読めないでしょう。
しかし、行く年と季節を惜しむ日本人の感性と、日本のことばの豊かさが、「しわす」という単語を生み、一年を最後まで味わい尽くそうとしたのでないのでしょうか。
大雪(たいせつ)
本格的に冬となってきて、雪が降りだす季節です。
雪国では、家や窓の雪囲いや植木の雪吊りの対策をします。新暦では12月7日頃から20日頃です。
大雪の初候(新暦12月7日~11日頃)「閉塞く冬となる(そらさむくふゆとなる)」
天地の気が塞がり、冬となるという意味です。
空は雲が重く垂れ込み、灰色に沈み、真冬が訪れます。
寒さは厳しくなりますが、寒ぶりや大根など、寒くなればなるほど美味しくなるものも出てきます。
大雪の次候(新暦12月12日~15日頃)「熊穴に蟄る(くまあなにこもる)」
熊も穴に入り、冬眠をする頃です。
この冬篭りの間に、子熊を生み育てる雌熊もいます。
そろそろ一年の汚れを落し、すす払いをする時期でもあります。
大雪の末候(新暦12月16日~20日頃)「鱖魚群がる(さけのうおむらがる)」
今では、サケが川を遡上する時期と言われていますが、本来は日本固有種タナゴが淀みに集う、という意味です。
新巻鮭などが食卓に上る時期なので、「サケの群が川を遡る」というように変化してきたのだということです。
冬至(とうじ)
一年の中で太陽が最も南に寄るため、北半球では最も昼が短く、夜が長い日です。
新暦では大体12月22日頃です。
長く暗い日ではありますが、この日を境に日が伸びていくため、古くは冬至が一年のはじまりの日でした。
冬至の初候(新暦12月21日~25日頃)「乃東生ず(なつかれくさしょうず)」
乃東とは、漢方薬に使われる靫草(うつぼくさ)」の漢名である夏枯草(かこそう)のことです。
冬至の頃に芽を出し、夏至の頃に枯れることからこの名が付けられました。
冬至の次候(新暦12月26日~30日頃)「麋角解(しかのつのおつる)」
「麋」とはヘラジカのような大きな雄の鹿のことです。
この大鹿は、春に角が生え変わるニホンジカではなく、七十二侯が生まれた中国大陸にいた麋鹿(ミールー)ではないかということです。
冬至の末候(12月31日~1月4日頃)「雪下麦を出だす(せつかむぎをいだす)」
まだまだ雪は降り続き積ってはいるが、その下で蒔いた麦の芽は、生え始めています。
目には見えねども、生き物の息吹は着々と命を育んでいます。
羽子板市
江戸の町には一年に三度、太市が開かれました。
その中でも年末の師走12月の市が一番にぎわい、それは歳の市と名付けられました。
お正月用の歳の市は、江戸中期までは浅草に限られていて、又浅草寺の縁日と重なって賑わい、江戸の町の年中行事になりました。
明治以降になると、お正月用品の購入はすたれ、今では江戸中期から流行り出した、羽子板市に変わって賑わうことになりました。
室町時代の看聞日記という書物に「永享4年(1432年)正月御所において公喞、女官のかたがたが、紅白に分かれて、羽根突きに興じた」と記録があります。
このことから、羽子板は、それ以前から作られていたことが分かります。
羽子板は古くは「胡鬼板」とも呼ばれ、正月の遊び道具として、新年を迎える贈り物としても使われました。
新年に邪気を払いのけて、子どもが健やかに成長することを願う意味もありました。
新年を迎える行事として定着した羽子板飾りには、蒔絵などの技法を用いて美しい装飾専用の羽子板が作られました。
とりわけ江戸の庶民に受け入れられていったのが押絵羽子板です。
庶民の間で熱狂的にもてはやされ、歌舞伎の人気役者や、浮世絵の美人画など押絵羽子板は、江戸の人々の人気を集めました。
現在でも、浅草寺の羽子板市は約30軒の羽子板の露店の他、沢山の屋台・露店が仲見世を抜けた辺りから軒を連ねます。
今では定番の歌舞伎の絵柄だけでなく、その年に活躍した芸能人・政治家・スポーツ選手・キャラクターなどの「世相羽子板」も名物となっています。
様々な柄の押絵の羽子板がずらりと並ぶ師走の風物詩「羽子板市」へ一度お出かけになってみてはいかがでしょう。
冬至とクリスマス
北半球で太陽の高さが一番低くなる日を冬至と呼びます。
暗く寒い冬の中でも、冬至は一番昼が短く、夜が長い日です。
赤道に近い暖かい地域以外の人々にとって、今と違い、電気もガスもない時代に、冬を越すということは大変なことだったに違いありません。
しかし、一年で一番暗く長い夜の冬至を過ぎれば、一日一日、日脚が伸び、日毎に太陽の光が注ぐ時間は増えていきます。
冬至は別名「一陽来復」とも言われ、暗く閉ざされた冬から、春を迎える新しい年が始まる希望の日でもありました。
ところで、今では日本の年中行事にもなっているクリスマスですが、実は冬至と深い繋がりがあるのです。
実はキリストの誕生日は聖書にも記されておらず、諸説入り乱れてはっきりしません。
そして、クリスマスの12月25日はキリスト生誕日と言われていますが、当初は違いました。
初期のキリスト教では、キリストの誕生日を救世主が世に現れた日を、キリストが洗礼を受けた1月6日とし、その後、イエスは生まれながらに救世主であったという解釈から、1月1日としました。
そして、西暦325年のニケヤ公会議で、12月25日と定めたと言われています。
なぜここで、12月25日という日が出てくるのでしょう?
そもそもその12月25日は、東方のミトラ教の祝日でした。
古代ローマ帝国では、紀元1~4世紀にキリスト教が盛んになるまで、ミトラ教が盛んでした。
ローマの人々は、ミトラ教の太陽神ミトラが、冬至の日に亡くなり、その三日後の25日に復活すると信じ、25日には盛大な祭りを行っていました。
また同じ頃、ローマには農耕の神サターンを祝うサトゥルナーリア祭もありました。
当時のローマ帝国はキリスト教を弾圧していましたが、コンスタンティヌス大帝は太陽崇拝を続けながらも、ミトラ教に代り、キリスト教を公認しました。
まだ新しい宗教であったキリスト教を広める指導者たちにとっては、太陽の復活する日をイエスキリストの降誕の日と結びつけることは喜ばしいことであったでしょう。
こうして、ミトラ教の祭日が、そのままキリスト生誕の日として受け継がれ、325年のニケア公会議で正式に12月25日がキリスト降誕の日と定められました。
又、古代ヨーロッパでは、ケルト民族やゲルマン民族の間で、冬至祭が行われていました。
北になればなるほど、太陽の光は貴重で、冬至の日はまさに太陽が死と復活の日。
暗い冬から春に向かいはじめる日を祝う冬至から、クリスマスは生まれたと言えましょう。
煤払い
煤払いとは、一年に一度、家の煤を払い、掃除することで、現在の年末の大掃除の元でもあります。
本来の煤払いは、神棚や仏壇の掃除をし、その後、竈のある台所から始め、それぞれの部屋を掃除しました。
掃除道具は、笹竹の先に葉や藁をつけたものを作り、それで家の内外を掃き清めました。
この竹を清めの竹という地方もあり、煤払いは、年神様を迎えるための、お清めの行事でもありました。
江戸時代には、煤払いは12月13日に行われるようになります。
旧暦のこの日は、婚礼以外は何をするにも大吉の最吉日。
煤払いをして、一年の汚れと穢れを払い、新しい年を迎える準備をするには、最適の日だったのです。
昔は、炭や薪で煮炊きをし、暖を取ったので、家の天井や壁は、煤で相当汚れました。煤払いで煤を落とすと、さぞかしすっきり晴れやかになったでしょう。
江戸城はじめ商家などでは、煤払いの後、胴上げをした、とも伝えられています。
煤払いは単なる清掃というだけでなく、厄落としやお正月を迎える祝事でもあったのです。
最近では、大掃除は年末に行うのが一般的になっています。
今は煤など溜まらず、よい掃除道具も沢山あり、掃除も随分楽になりました。
それでも、早め早めに掃除しておくと、年末は格段に気楽になります。
今年は最吉日とされる12月13日を、煤払いならぬ大掃除の手始めの日として、早めに年神様を迎える準備をなさいませんか?
正月事始
事始(ことはじめ)というのは、ものごとの始まり、新しい仕事を始めること。
正月事始(しょうがつことはじめ)というのは、お正月を迎える準備を始めることです。
江戸時代になって、12月13日が鬼宿日で大吉日であることから、正月事始の日になりました。
この日から、お正月の年神様をお迎えする準備をはじめます。
まずは煤払い、それから門松や注連縄を用意し、そして餅つきをして鏡餅をお供えするなど始めていきます。
煤払い(すすはらい)は、単なる大掃除ではなく、年神様を迎えるための神聖な行事として行います。
煤払いで家を清らにしたあとは、門松用の松やおせちなどの煮焚き用の薪を恵方の山に取りに行きました。
これを「松迎え」といいます。門松は歳神様のよりしろと考えられ、門松をたてることは欠かせないことでした。
家の前に門松を立てたあとは、家の中にも歳神様のお過ごしになる場所が必要で、それが鏡餅です。
古くから餅は稲の実りの象徴であり、稲と神の霊力が宿ったものでした。
この餅を作るために「餅つき」をして、歳神様の居場所を作り、お供えにもしました。
煤払い、門松、注連縄、餅つきなど、今は12月13日に始める必要はありませんが、年末ギリギリでなく、余裕をもって新年を迎える準備、ひとつでもしたいですね。
雪吊り
冬の間に樹木に雪が積もることで樹木の枝が折れることのないよう、縄で枝を保護することを「雪吊り」といいます。
積雪の多い地方では、11月から12月半ばにかけて、この「雪吊り」をして、樹木を守ります。
「雪吊り」でひときわ有名なのが、金沢の兼六園です。
金沢は藩政時代から造園の技術が発達し、「雪吊り」の技術は「兼六園方式」と呼ばれ、全国から庭師さんが学びに行くそうです。
「雪吊り」には木の大きさや枝ぶりにより種類があり、使い分けられています。
大きく枝ぶりがよいものは、芯柱を立て、その先から縄を張って枝を支える「リンゴ吊り」を施します。
兼六園随一の大きさを誇る「唐崎松」は「リンゴ吊り」の要領で5本の芯柱が建てられ、800本にも及ぶ縄で枝を吊るそうです。
幹のしっかりした大きな木には、幹から縄を張って枝を支える「幹吊り」で保護します。
背の低い木も、形に応じて「小しぼり」「竹ばさみ」「四又しぼり」など、様々な吊り方で保護します。
様々なバリエーションが見られる兼六園の「雪吊り」は、北陸の師走の風物詩のひとつです。
お歳暮
令和の二つ前の昭和時代までは、夏のお中元、年末のお歳暮は年中行事の一つといってもよいほどで、その時期のデパートの中元歳暮売り場は、贈り物を選ぶ人でごったがえしていました。
お歳暮の元々の起源は、年の変わり目のご先祖様の霊へのお供え物でした。
それが親や里の親への挨拶になっていき、近年になると仲人や上司などお世話になった人に贈るようになりました。
本来はそのお宅に持参してご挨拶をしたものでしたが、次第に簡略化されて、配送業者が配送してくれるようになりました。
最近は儀礼廃止が進み、お歳暮を贈る風習もかなり減ってしまいました。
それでも、お世話になった方へ、感謝の気持ちを込めてお品を選べることは、心豊かで幸せを分かち合えること。
今年も暖かい気持ちを持って、お歳暮を選び贈ることが出来る、そんな年の暮れが迎えられますように。
かぼちゃと柚子
昔から日本では、冬至には、かぼちゃを食べ、柚子湯に入ると、運気が上がり、無病息災でいられると言い伝えられてきました。
かぼちゃには、体内でビタミンAに変わるβカロテンをはじめ、ビタミンC、ビタミンEなどのビタミン類、カルシウムや鉄分も含まれています。
ビタミンとは縁遠い外観ですが、実は皮膚を守り、感染症への抵抗力をつけてくれる栄養素満点の野菜です。
冬場に取れる野菜が少なかった昔、長期保存がきき、保存期間が延びても栄養素の損失が少ないかぼちゃは、実に冬を越すのに必要不可欠なものでした。
ところでかぼちゃの別名は南瓜(なんきん)。
「ん」がつくと、「運」がつくと考え、南瓜のように「ん」が二つつくものはより運気が上がる、と縁起を担ぎました。
栄養があり、運気も上がる、名実ともに、かぼちゃは冬至のスターなのですね。
もう一つのスターは柚子。
柚子のビタミンCには疲労回復効果があり、精油成分のリモネンやシトラールは、血行促進や肌の保湿に効果があります。
柚子のかぐわしい香りにはアロマテラピーのリラックス効果もあり、柚子は食用としても、お風呂に入れても、効能が高い優れた果物なのです。
しかし、なぜ冬至に柚子湯なのでしょう?
冬至(とうじ)は湯治と、湯につかり病を治すことにかけています。
日本人は、南瓜(なんきん)の「ん」が運気を上げる、と同様、言葉のプラシーボ効果を縦横無尽に活用して来たことが分かります。
寒い冬至の時期に手に入る、数少ない栄養溢れる食材が、かぼちゃと柚子。
それらを食べるだけでなく、フルに活用する知恵で、昔の人は冬を乗り切ってきたのですね。
「キャンドルツリー柄風呂敷」タペストリー
キャンドルで作られたクリスマスツリーには、サンタさんが集めてきた日本のお正月の玩具が、オーナメントとして沢山飾られています。