和の暮らし
五月皐月
五月 皐月
五月の別名としては、早月、早苗月、稲苗月、菖蒲月、橘月、雨月、五月雨月、梅月、梅夏、月不見月、などがあります。
早月、早苗月、稲苗月、は、まさに田植えを始める時期から、菖蒲月、橘月などは、この頃の花に因んだ名前です。
五月は旧暦では梅雨の時期に当たるので、雨月、梅月、梅夏、月不見月、などとも呼ばれました。
中でも、一番耳にするのは「さつき」という呼び名でしょう。
その由来はいくつかあります。
「さ」は、古くは耕作を意味する言葉で、耕作を始める月だから、「さつき」となったという説。
早苗を植える月であることから、「早苗月(さなえづき)」となり、それが略され、「さつき」となったという説。
いずれにしても、旧暦五月は耕作を始める月で、「さつき」となったようです。
しかし、「さつき」が「早月」ではなく、「皐月」という漢字になっているのはなぜでしょう?
皐月の「皐」という漢字は、「神に捧げる」という意味です。
日本の人々は、「さつき」の時期に田植えで早苗として植えた稲を、収穫の秋まで大切に育てました。
日照りや台風、洪水などの自然災害をしのぎ、無事稲が実り収穫できることは、昔の日本の人々の生命線でした。
秋になって、稲が無事収穫できることは、本当に嬉しいことだったはずで、まずは田の神様に収穫できた稲を捧げ、豊作を報告し、感謝してきたでしょう。
「早月」が「皐月」と変わって行ったのには、心からの収穫の祈りと感謝が込められているように思います。
立夏(りっか)
二十四節気では、一年を春夏秋冬四つの季節に分けています。
その始まりに「立つ」という名をつけ、春は「立春」、夏は「立夏」、秋は「立秋」、冬は「立冬」と名付けました。
心地よい爽やかな風が吹き、木立の緑が目に冴え冴えと映ってきます。
「立夏」はまさに夏の始まりの時期です。
新暦では、5月5日頃から5月20日までです。
立夏の初候(新暦5月5日~9日頃)「蛙始めて鳴く(かえるはじめてなく)」
田んぼや野原で蛙が威勢よく鳴き始める頃です。
古来稲作と共に生きてきた私たち日本人にとっては、蛙は水田や畔に生息するなじみ深い生き物です。
蛙の雄が雌に対して求愛して鳴くにぎやかな鳴き声は、夏の訪れを伝えてくれます。
立夏の次候(5月10日~14日頃)「蚯蚓出る(みみずいずる)」
土の中に籠っていたみみずも土の上に顔を出してくる頃です。
釣りの餌くらいと軽んじられている存在のみみずですが、実は自然界では素晴らしい役割を果たします。
土の中で動いて土を掘り起こし耕し、食べて排泄することで、土を腐植土として豊かにしてくれるのです。
みみずは土を育み、ひいては生き物を育んでくれているのです。
立夏の末候(新暦5月15日~20日頃)「竹笋生ず(たけのこしょうず)」
筍が生える時期、ということですが、筍の旬はもっと前の春先の気がしませんか?
実は今なじみのある筍は孟宗竹で、中国から江戸時代に伝わった外来種で、もっと前から生えてきます。
この候の筍は、孟宗竹とは違い、日本原産の真竹のことのようです。
因みに「筍」という字は日本で出来た国字です。
竹に旬と書いて「筍」とは、まさに季節を感じて生きてきた日本人らしい字です。
小満(しょうまん)
小満は、二十四節気の中ではなじみの薄いものだと思いますが、小さな命の息遣いが天地に満ち満ちていく様子から、小満と名付けられたということです。
この頃から太陽の光が燦々とさし、陽気がよくなり、生きとし生けるものの気が満ち満ちていきます。
新暦で5月21日頃から6月4日頃です。
小満の初候(新暦5月21日~25日頃)「蚕起きて桑を食う(かいこおきてくわをくう)」
蚕が卵から孵り、桑の葉を食べて育っていく頃です。
蚕は桑を大層なスピードで食べ、その食む音は雨の音のように盛大です。
桑を食べては四度の脱皮を繰り返し、最期に繭を作ります。
この繭からとれる生糸は、明治時代から昭和初期まで日本の最大の輸出品でした。
日本の近代化は、蚕が支えていたと言っても過言ではないのです。
小満の次候(新暦5月25日~5月30日)「紅花栄う(べにばなさかう)」
紅花が咲き乱れる頃です。
名前は紅花ですが、花は黄色で、その花弁から美しい紅の染料が取れるため、広く全国で栽培され、特に最上川流域で生産されました。
最高級の紅は、江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われるほど高価なものでした。
小満の末候(6月1日~4日頃)「麦秋至る(ばくしゅういたる)」
麦の穂が実り、麦畑には青々とした青々とした眺めが広がります。
この時期が麦にとっては収穫の秋であることから、麦秋と名付けられました。
端午の節句
端午の「端」は、はしっこ、という意味。
端午は、月の始めの牛(うし)の日ということですが、漢代以後に「ご」の音が重なる五月五日になったといわれています。
今でこそ、五月五日は端午の節句として子供の成長を祈るお祝いの行事ですが、中国では古来、五月は悪月とされました。
古代の中国では、旧暦の五月は雨が多く、天災や戦乱が重なった時期だったようで、禁忌多く、忌み慎む月だったようです。
そのため、五月五日は無病息災を願い、邪気払いや魔除けの行事が色々行われました。
端午の日、人々は野に出て草を踏み、持ち帰った蓬や菖蒲で人形を作り、門戸や軒下に飾ったり、摘んだ薬草で薬湯に入ったり、薬草酒を飲んだりして、邪気払いをしたそうです。
日本も旧暦の五月のこの時期は、梅雨で水の被害が出たり、ものも傷みやすく体調を崩しやすい時期でした。
中国のこれらの邪気払いが日本に伝わると、自然に宮中行事として取り入れられていきます。
そして、時代が下り、公家から武家に伝わ
ると、菖蒲は尚武に通じることから、端午の節句は、邪気払いから男子の節句に変わっていきます。
武家では、幟を立て、鎧兜や弓矢を飾り、男子の成長を祈りました。
江戸時代になると、この行事は庶民にも広がっていき、鯉のぼりや吹き流しを立てるようになります。
ちなみに吹流しの五色、青、白、赤、黒、黄、は、仁・義・礼・智・信の五常の心を表し、厄除けの意味もあります。
中国から伝わった邪気払いで使われた菖蒲は菖蒲湯に、粽は祝いのお菓子に、幟旗は鯉のぼりに、実に上手に日本の年中行事に取り入れられています。
端午の節句には、日本人が外からの文化をいかに柔軟に日本の風習に取り入れているかが、実に豊かに興味深く見られます。
端午の節句と屈原の伝説
端午の節句には、人々は野に出て草を踏んだり、持ち帰った蓬や菖蒲で人形を作り門戸や軒下に飾ったり、摘んだ薬草で薬湯に入ったり、薬草酒を飲んだり、龍舟(ドラゴンボート)競争を行ったり、粽(ちまき)を食べたりと、地方により様々な行事を行ってきました。
その中でも、粽や龍舟競走には、ある伝説が語り継がれています。
楚の政治家で詩人でもあった屈原は、秦の甘言にそそのかされそうになった楚の懐王を諫めましたが、受け入れられませんでした。
その結果、懐王は秦に捕らえられ、楚は秦の手に落ちてしまいます。
楚の行く末に絶望した屈原は、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に身を投げたのでした。
屈原の霊を鎮め、また亡骸が魚に食われないよう、人々が竹の筒や笹の葉に米を入れて川に投げ込んだことが、現在の粽の元と言われています。
又、入水した屈原を助けようと先を争い舟を出したという故事が、龍舟競走の由来とされています。
端午の節句と五月(さつき)忌み
日本でも古くから、5月は物忌みの月で、「皐月(さつき)忌み」という風習がありました。
この時期日本では田植えが始まりますが、田植えをする早乙女と呼ばれる若い乙女は、田の神を迎える前に不浄を避け、小屋に籠って穢れを払いました。
これを「五月忌み」と呼びました。
中国から伝わった端午の「邪気払い」は、日本のこの「五月忌み」と容易に結びつき、この時期の物忌みの行事となったと思われます。
日本の端午の節句の由来は、元々は女性のものであったということがわかります。
端午の節句と男子の節句
日本では元々、女性のものであった端午の節供は次第に男子の節句に変化していきます。
それは武家が時代の主役となった鎌倉時代からです。
端午の節句につきものの「菖蒲」は「尚武(武を尊ぶ)」と読めることから、武家社会では端午の節句を男子の節句として行うようになりました。
江戸時代になると、五月五日は五節供として式日となり、武家では男子が生まれると門前に家紋を記した幟を立て、鎧兜や弓矢などを飾り、男子の成長を寿ぎ祈りました。
この行事は庶民にも広がっていきますが、武家以外には幟旗は許されませんでした。
代りに庶民は、中国の故事の鯉が滝登りをして龍になるという「鯉の滝登り」にあやかり、出世の願いを託し、武家の幟に似せて、鯉のぼりを立てるようになりました。
又、庶民は武家で飾られる鎧兜や武者人形なども紙で模したりして飾りました。
それらはのちに現在の五月人形になりました。
こうして、本来は邪気払いであり、女性のものであった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る日になりました。
「端午の節句」と「こどもの日」
五月は初めの頃に大型連休が来る嬉しい月で、そのお休みの日の一つが五月五日の「こどもの日」です。
こどもの日は、1948年に「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」として、国民の祝日として制定されました。
このこどもの日の由来は、五節句の一つ、五月五日の「端午の節句」です。
端午の「端」は、はしっこ、という意味で、月の始めの牛(うし)の日で、中国の漢代以後に「ご」の音が重なる五月五日になったといわれています。
古代の中国では、この頃は雨が多く、天災や戦乱が重なった時期だったようで、端午の時期に厄災除けや物忌みの行事を行いました。
その端午の節句が日本に伝わったのは、奈良時代と言われています。
古来、日本でも五月は物忌みの月で、田植えをする早乙女と呼ばれる若い女性は、田の神を迎える前に不浄を避け、小屋に籠り、穢れを払う五月忌みをする習慣がありました。
中国から伝わった端午の邪気払いは、日本のこの五月忌みの風習と自然に結びついてゆきました。
このように、本来の日本の端午の節句は、実は男子だけのものではなく、女性のものでもありました。
武家社会の鎌倉時代になると、菖蒲は尚武に通じることなどから、端午の節句は邪気払いから男子の節句になっていきます。
こうして、本来は邪気払いであり、女子の五月忌みでもあった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る日になりました。
戦後は前述のように、五月五日は「こどもの日」として国民の休日になり、男女を問わず、こどもの成長を祈る日となりました。
しかし、五月五日の端午の節句も、三月三日のひな祭り同様、年中行事として今も男の子、女の子、それぞれの節句として祝われています。
私たち日本人は、古くからの風習を実に柔軟に変化させ、外からの新しい文化も見事に取捨選択して、取り入れてきました。
日本の端午の節句の移り変わりには、そんな日本人の、賢く柔らかい感性が刻まれています。
皐月の行事 「八十八夜」
「茶摘み」という唱歌があります。
1番
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘じゃないか
茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠
2番
日和つづきの今日此の頃を、
心のどかに摘みつつ歌ふ
摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにや日本の茶にならぬく
京都の宇治田原町の茶摘み歌が元と伝えらているこの歌にも、八十八夜という言葉が出てきます。
太陰暦を元としている日本の旧暦では、暦の日と季節が半月近くずれてしまうので、日本独自に太陽暦を元とした季節指標を作り広まったのが雑節です。
八十八夜はこの雑節の一つで、立春から数えて八十八日目の日を指します。
この頃は種蒔きや田植えの準備、そして茶摘みなど、本格的な農作業の準備をする時期です。
通常は霜が降りるのはこの頃までなので、農作物に被害が出ないよう、農家に注意喚起するため、この日を雑節の八十八夜としたともいわれています。
ところで八の字は末広がりでおめでたい数字で、八十八はそれが重なった縁起のよい数字です。
そのため、八十八夜に摘んだお茶は貴重で珍重され、この日に摘んだお茶を飲むと長生きするとか、一年間病気にならないと言われています。
母の日
日本ではある時期から、毎年5月の第2日曜日が、「母の日」として定着しています。
ほぼ皆が知っている年中行事になりましたが、日本の元々の行事ではありません。
「母の日」は世界各国にあり、由来も様々ですが、日本の「母の日」はアメリカから伝わった風習です。
アメリカでは、1905年の5月9日に、フィラデルフィアのアンナ・ジャービスという少女が、母の死をきっかけに、生きている間にお母さんに感謝の気持ちを伝えよう!という提案をしたのが始まりと言われています。
これがアメリカ全土に広がっていき、1914年に、当時のウィルソンアメリカ大統領が、5月の第二日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日となりました。
アンナは亡くなった母親には、好きだった白いカーネーションを贈り、祭壇に飾りました。
このことから、母親が健在であれば、白でなく赤のカーネーションを贈るようになりました。
日本では青山学院で、最初の「母の日」礼拝が行われ、その後、女性宣教師たちが熱心に働きかけ、徐々に広がっていきます。
昭和に入り、大日本連合婦人会が結成されると、香淳皇后の誕生日である3月6日を「母の日」と定めました。
その後、森永製菓が「森永母の日大会」として大々的にお母さんを称えるイベントを催したりしたことで、「母の日」は各地に広まっていきました。
そして、第二次世界大戦後は、アメリカに倣い、5月の第2日曜日に行われるようになり、これが一般的となりました。
戦後に定着した風習ですが、「母の日」は母に感謝するとても良い機会です。
それぞれ色々な形で、感謝の気持ちをお母さんに伝えたいですね。
おうちで楽しむ皐月の風呂敷タペストリー
五月といえば「こどもの日」。
「こどもの日」といえば、こいのぼり、かぶと、菖蒲、その全てが入った小風呂敷です。