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4月 清明・穀雨 清明(せいめい) 江戸時代の『こよみ便覧』にはこの季節のことを「万物(ばんぶつ)発して(はっして)清浄明潔(しょうじょうめいけつ)なれば、 此芽(このめ)は何の草としれるなり」と書かれています。 万物が目覚め、草木は芽吹き、その種類が分かるようになる時期という意味です。 陽の光が明るく輝き、全てのものが生き生きと成長しはじめる、まさに清々しい季節です。 新暦では、4月4日頃から19日頃です。 清明の初候(新暦4月4日~8日頃) 「玄鳥至る(つばめきたる)」 冬を暖かい南の地方で過ごした燕が、日本に日本に渡って来る頃です。 「玄鳥」の玄とは黒いという意味で、玄鳥とは、「つばくろ」、燕のことです。 燕は縁起がよい鳥とされ、昔から「燕が巣をかけるとその家に幸せが訪れる」という言い伝えがあります。 清明の次候(新暦4月9日~13日頃) 「鴻雁北へかえる(がんきたへかえる))」 暖かくなって、水鳥の雁が北へ帰って行く頃です。 雁は夏場はシベリア、又秋になると日本へ帰って来ます。 これら渡り鳥の群れが北の海を渡っていく春先の北国の曇り空のことを鳥曇、羽ばたく羽音を鳥風と呼ぶそうです。 清明の末候(新暦4月14日~19日頃) 「虹始めて見る(にじはじめてあらわる)」 春になって、雨の後に虹が出始める頃。 春の虹は淡くてすぐ消えがちですが、若葉が萌える山にかかる虹は幻想的なものです。 ところで「虹」という漢字は、蛇を表す「虫」と貫くという意の「工」で出来ています。 古代中国では虹が天に住む大蛇や竜がとして考えられたことから、この字が与えられたのだといわれています。 穀雨(こくう) 「穀雨」とは、江戸時代の「こよみ便覧」の「百穀春雨(雨が降って百穀を潤す)」から生まれた言葉です。 この頃になると、やわらかい春雨が降る日が多くなります。 種蒔きなど、農作業を始める目安の時期とされています。 この春の雨は恵みの雨として、全ての作物草木の芽を出させる手助けとなります。 それだけにこの時期の雨には様々な名前がついています。 草木を潤す雨は「甘雨」、穀物の成長を促す雨は「瑞雨」、開花を促す「催花雨」。 長く続く春雨は「春霖」、菜の花が咲く時期の雨を「菜種梅雨」。 うつぎの花が腐ってしまいそうな程、長く続く雨の「卯の花くだし」など。 しとしとと降る雨は少々気重ですが、春の雨は百穀の雨、つまりは私たちが生きるためにも必要な命を育む雨。 そう思うと春の雨も愛しいですね。 新暦では4月20日頃から4月24日頃です。 穀雨の初候(新暦4月20日~24日頃) 「葭始めて生ず(あしはじめてしょうず)」 春の水辺の葭が芽吹く頃です。 葭の新芽は別名「葦牙(あしかび)」とも言います。 柔らかい土からとんがった葭の芽が川面から顔を出す様を牙のように見立てた言葉です。 穀雨の次候(新暦4月25日~29日) 「霜止んで苗出ず(しもやんでなえいず)」 この時期になると霜が降りる心配はなくなります。 昨年の秋に収穫された籾が、今年の稲の種として芽吹き青々と伸びていきます。 いよいよ日本人の命を育んできた稲の田植えの準備の始まりです。 穀雨の末候(新4月30日~5月4日頃) 「牡丹華さく(ぼたんはなさく)」 牡丹の花が咲きだす季節です。 薬草として中国から伝来した牡丹ですが、平安時代には宮廷や寺院で観賞用として栽培されるようになりました。 「富貴草」「百花王」「花王」「花神」「天香国色」など、その美しさを褒め称える名が沢山つきました。 日本の年中行事 日本人と桜とお花見 日本人と桜 本来の年中行事ではないのですが、日本の春の行事として、もはやお花見なしでは過ごせないのではないでしょうか? 三月に入るとすぐに、桜の開花予想が天気予報で取り上げられます。 桜の開花は早いのか遅いのか、咲いている期間は長いのか短いのか、日本中の人々が待っていると言っても過言ではないくらい、 桜の花が開くのを待ち望んでいます。 日本人はいつからこれほど桜を愛で、花見というものをするようになったのでしょう? 日本の花と言えば桜、とお思いの方が多いかもしれませんが、実は古くはそうではありませんでした。 和歌で「花」といえば「桜」を指すと言いますが、実はそれは古今和歌集以降なのだそうなのです。 これは花が詠まれた和歌の数でうかがい知ることができます。 古今和歌集で「桜」が詠まれた歌は75首、「梅」が詠まれた歌は22首です。 しかし万葉集では「桜」が詠まれた歌は40首で、「梅」が118首とされています。 「桜」と「梅」の逆転現象はいつ起こったのでしょうか? 奈良の平城京から京都の平安京へ遷都したされた際、紫宸殿に植えられたのは梅でした。 紫宸殿は朝賀や公事を行う、内裏の中で最も目立つ場所です。 平安初期はまだ花と言えば「梅」だったのです。 しかし、この紫宸殿の梅が桜に置き換えられる時がやってきます。 のちに「左近の桜」と呼ばれるようになる「桜」が植えられた時が、桜が「花」の代名詞になった瞬間でもありました。 日本人とお花見 「日本書紀」に嵯峨天皇が「花宴の節」を催したとあり、これが記録に残る最初の花見とされています。 平安中期から天皇主催の定例行事として花見が行われるようになり、貴族の間でも盛ん行われました。 鎌倉時代以降には、貴族の花見の風習は武士階級にもに伝わり、武士の間でも行われるようになります。 豊臣秀吉の吉野の花見や醍醐の花見は歴史に残る大規模なものでした。 江戸時代になると庶民にも花見の風習は広まっていきます。 これは八代将軍徳川吉宗のおかげと言われています。 吉宗は、隅田川の桜堤、飛鳥山、御殿山などに桜を植えさせ、飲食店まで用意させ、花見を奨励しました。 江戸時代は火事が多く、それも不満を持つ者の放火も多かったと言います。 花見の名所を作ることの目的の一つは庶民の憂さ晴らしや娯楽の場を提供することでした。 又、治水対策の隅田川の堤は、花見の客が沢山来ることで、結果、人々の足で踏み固めてもらえることになりました。 飛鳥山は鷹狩場で、農民の田畑を荒らすことへの返礼として、花見客が農民たちに収入をもたらす方策となりました。 まさに一石二鳥の名案で、吉宗が作った江戸の花見の名所は今も私たちを楽しませてくれています。 明治の文明開化の時代は、大名屋敷や庭園が取り壊され、桜木も沢山倒されました。 それを惜しんだ植木職人の高木孫右衛門は生き残った桜を自身の庭に集め、根づかせ、84種を保存します。 その後、その桜たちを使い、植木職人の清水謙吾はじめ多くの人の尽力で、荒川堤に桜並木が作られます。 又、その桜たちは新宿御苑や小石川植物園など各地の研究施設に移植され研究が続けらました。 今、私たちが毎年、美しい桜を愛でられるのも多くの先人たちのおかげです。 今年のお花見は日本の先輩たちに感謝して楽しみたいですね。 卯月のしつらい 4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日です。 仏教では仏性会(ぶっしょうえ)、誕生会(たんじょうえ)、また、「花まつり」と呼んで祝います。 花まつりとして様々な花を飾るだけでなく、穀雨の時期として、春らしい野菜も飾るのも一興です。 卯月のふろしき やはり今回は花と言えば「桜」。桜柄のふろしきをご紹介します。 桜柄のふろしきは沢山ありますが、今回は夜桜のイメージのふろしきをセレクトしました。 <<次回のはなし 前回のはなし>>
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