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七月 文月のくらしの彩

文月の風物詩



「土曜丑の日と鰻」

土用というのは、中国の陰陽五行説の言葉です。
本来は「土旺用事」ですが、短く略して、土用に変化しました。
陰陽五行説では、5つの要素を四季にあてはめると、春は木、夏は火、秋は金、冬は水、になり、土だけが残ります。
そこで、各季節の変わり目の18日間に土を割り当て、それを「土用」としました。
土用は本来、春夏秋冬と四回あったのですが、今では夏土用のみを土用というようになりました。

この夏土用は、一番暑い時期で、体にこたえ、体力が低下する頃。
それで、土用卵、土用餅、土用しじみ、など、精がつく食べ物が食べられました。
鰻も「う」がつくけれど、実は鰻は、冬眠を前に身に栄養分を蓄え、晩秋から初冬が最も美味しい時期で、夏はあまり食べられていませんでした。
なぜ、鰻が丑の日に食べられるようになったのか?
これには諸説ありますが、代表的なものは平賀源内説です。
元々、夏の土用の丑の日に「うのつく食べ物を食べると夏負けしない」と言い伝えられていました。
それで、ある鰻屋さんが夏場に鰻が売れないで困り、源内先生に相談しました。
源内先生は「本日、土用の丑の日」という大きな幟を出し、鰻を食べると薬になると宣伝しなさい。」とアドバイスしたと言われています。
その結果、その鰻屋さんは大層繁盛し、その後は他の鰻屋さんも真似るようになり、「土用の丑の日には鰻を食べる」風習が定着した、ということです。

ところで、実は日本人が鰻を食べ始めたのは、かなり古くからで、先史時代より食べられていたようです。
鰻がはじめて記録に書かれたのは、8世紀の「風土記」で、「万葉集」にも詠われています。
調理法は、14世紀の「鈴鹿家記」に出てきますが今の調理法とは全く違うものでした。
その調理法は、鰻をぶつ切りにし、串に刺して焼くもので、その形が蒲の穂ににているから、蒲焼という名前になったと言われています。
味付けは、醤油や味噌、塩、酢などでしたが、醤油は鰻から出る脂で弾かれてしみ込まず、あまり好まれませんでした。
のちに、今のように鰻を裂いて骨を取り、串を打って焼くようになりましたが、まだ、味付けはまだ味噌や酢が主流でした。
その後、千葉の野田や、銚子などで作られる関東の濃口しょうゆが普及するにつれ、しょうゆ味の蒲焼が生まれてきます。
鰻のたれは、鰻屋さんでそれぞれ味付けが違いますが、基本はしょうゆとみりんです。
山椒や酒などを加えることもありましたが、次第に現在のしょうゆとみりんを合わせた甘辛いたれの味に近くなったようです。
江戸の町でも、関東風と関西風が混じって売られていたようですが、19世紀以降は関東風の味付けになりました。
この甘辛い蒲焼になると、ご飯のおかずにふさわしくなります。
それまで、蒲焼だけしか売られていなかった鰻屋や蒲焼屋に加え、「めしや」としての鰻屋が登場し、「うな丼」が生まれます。
19世紀半ばに出版された「守貞漫稿」には、「うなぎめし」の説明が書かれています。
鰻はビタミンAやDが豊富、丑の日だけでなく暑い夏に頂きましょう。



文月の和歌



「掬(むす)ぶ手に 涼しき影を慕ふかな清水に宿る 夏の夜の月」
西行 山家集

西行は桜と月を愛でた歌人でした。
漂泊の旅の途中、夜になっても暑さが残る手に、清水はさぞかしひんやり冷たく気持ちよかったことでしょう。
清水を汲んだその手に映る月は、頭上の月にも増して、涼やかに冴え冴えと光を放っていたに違いありません。



文月の色 「浅葱色」



浅葱色は、やや緑がかった薄い藍色です。
浅葱という字の通り、若い葱の緑色に因んでいますが、染色の浅葱色は、もう少し青みが強くなっています。
平安時代から使われている色で、「源氏物語」「枕草子」「宇津保物語」など、平安文学にもよくみられます。
江戸時代の中期ごろから、庶民の間でも使われるようになりました。
とても流行った色でしたが、田舎侍が、藍地の羽織の裏地に、この浅葱色を使ったことから、「浅葱裏」は野暮ったい人間の代名詞となりました。
又、幕末の新選組のダンダラ染めの羽織の色が、この浅葱色でした。
ダンダラ染めの羽織を着て討ち入りをした赤穂浪士に憧れて、同じ柄にしたようです。
しかし、なぜ、色は田舎侍のイメージがある浅葱色にしたのでしょう?
一説によると、武士が切腹の際に着る裃の色が浅葱色だったので、新選組は死への覚悟があると示す色であったともいわれています。
ところで、浅葱色と浅黄色は発音が同じで、よく混同されますが、浅黄色は青ではなく黄色です。
蓼藍から染める浅葱色からは、薄浅葱、水浅葱、花浅葱、錆浅葱、等々、様々なバリエーションが生まれ、今も愛され続けています。



文月の文様 「朝顔文様」

朝顔は元々は中国からその種が薬として渡って来て、とても珍重された植物です。
高価なため、頂いた相手の家に、牛を引いて御礼に行くという故事から、古来は「牽牛子」と呼ばれました。
次第に、朝に開くことや、朝に美しい花を咲かせることから、「朝顔」という名前になったようです。
その後、花がきれいなところから観賞用として栽培されるようになります。
江戸時代になると、鉢や垣根で手軽に育てられることから、庶民の間で愛されるようになります。
朝、花開くというところが、早起きで勤勉な江戸っ子の生活にはよく合っていたのでしょう。
江戸時代には二度も朝顔ブームが起こり、今のような沢山の種類の朝顔が生まれました。
朝顔が織りなす千変万化の美しさは、江戸からの贈り物だったんですね。




朝顔柄の風呂敷

すだれ越しに見える夏の山と空。
朝顔がくっり黒いシルエットで描かれているのが、涼しげな小風呂敷です。




拙ふろしきぶる風呂敷Lサイズ浅葱

拙ふろしきぶる風呂敷Lサイズ「浅葱。
爽やかな夏の空、南国の透明な海の青、そんなイメージで作ったのが、この浅葱色です。




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つつみ純子
お茶の水女子大学卒/風呂敷文化研究家/和文化コンシェルジュ/エコ・クッキング・ナビゲーター/福祉住環境コーディネーター2級/NPO法人徳育と人間力育成研究所アドバイザー
「日本の伝統文化を身近に再発見する」をキーワードに、風呂敷を通して、日本人の知恵や文化をお伝えしています。
又、日本古来の「年中行事」や「四季のしつらい」、「伝統食育」など、日本の生活文化を伝える講演やワークショップも展開しております。
2011年には国際交流基金からポーランド・グルジア等に派遣され、文化交流事業の風呂敷講師として、大学・政府関係機関などで風呂敷講座を行いました。
国内のみならず海外の方々へも、風呂敷を通して日本文化と日本の心をお伝えして参りたいと思い、 オリジナル風呂敷「ふろしきぶる風呂敷」と「つつみフロシキブック」を製作しました。
2020年東京オリンピックでは「大江戸オリンピックは風呂敷でおもてなし」を提唱しています。
また研究し纏めてきた「ふろしき学」が、2015年より都立で単位認定のある授業に採用され、実施しております。
学校教育の中でも、ふろしき文化をこどもたちに伝えていきたいと思っています。
「ふろしきぶる風呂敷」を活用した風呂敷文化の普及及び販売が、東京都中小企業振興公社の支援を受けることになりました。


□URL http://www.furoshikible.com/
□blog http://ameblo.jp/11264ki/
□Facebook https://www.facebook.com/junko.tsutsumi.332


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