源氏物語の頃の衣食住―11
源氏物語の色―玉鬘の山吹色
玉鬘は光源氏が愛したことがある夕顔と、光源氏の親友の頭中将との忘れ形見です。
夕顔の死後、残された玉鬘は乳母に連れられ、筑紫で賢く美しく成長しますが、現地の豪族太夫監の求愛を拒み、京へ上ります。
そして願掛けのため長谷寺へ参拝する途中の宿で、偶然にも母の夕顔の侍女であった右近に再会します。
右近からことの成り行きを聞いた光源氏は、玉鬘を養女として六条院に引き取ります。
光源氏は、若く美しい玉鬘を自分の身近に置いて、源氏の弟宮である蛍兵部卿宮をはじめ、髭黒大将、柏木など周りの男性が翻弄される様子を眺めて楽しんだのでした。
六条院に引き取られた玉鬘は裳着をすませ、実の父親である内大臣となった頭中将とも対面を果たし、冷泉帝の尚侍としての入内も決まります。
そんな玉鬘に光源氏は恋心を抱き、言い寄るようになります。
光源氏の行動に困惑した玉鬘は、帝への出仕直前に、髭黒大将と突然結婚してしまいます。
髭黒大将は髭が濃くて色黒で粗野な性格でしたが、玉鬘との結婚後には右大臣に、のちには太政大臣にまで昇りつめます。
その後、玉鬘は髭黒大将との間に三男二女をもうけ、落ち着いた生活を送ります。
田舎育ちではありましたが、美しく教養がある女君として成長した玉鬘は、周囲の勝手な思惑に振り回されながらも、堅実な身の振り方を選んだ聡明な女君だったのでしょう。
光源氏は年末の衣選びの際、玉鬘には鮮やかな赤の袿と山吹の花の細長を選びます。
咲き誇る山吹の花のように艶やかな黄色に真紅を添えた組み合わせは、若々しく華やかな玉鬘にぴったりの色だったでしょう。
源氏物語の頃の食―平安時代の行事食
平安時代には、年中行事や節会(せちえ)と呼ばれる暦に合わせて儀式を執り行う宮中行事が開かれ、その後には必ず宴会が開催されました。
1月1日の元日、1月7日の白馬、1月16日の踏歌、5月5日の端午、11月の辰の日の豊明は五節供とされ、行事後の宴会では御節供が供されました。
御節供は神様にお供えしていた料理ですが、年神様に感謝するお正月が一番盛大になり、のちにはおせちがお正月の料理として定着するようになりました。
平安時代の行事食は、もちろん食を楽しむことでもあったでしょうが、折々の食材を口にすることが出来るのは、その一年が災害や疫病などの被害がなく過ごせた証明でもありました。
一年が大過なく、収穫も無事に出来たことに心から感謝し、将来への祈りを込めて行う年中行事や宮中の儀式から生まれた行事食は、四季折々に様々な食材を授けてくれる、日本の豊かな山野や海や太陽や水などの自然全てへの感謝の食でもあったのです。
源氏物語の頃の住まい―長谷寺
奈良県桜井市初瀬にある長谷寺は、686年に興福寺の僧である道明が創建した寺です。
727年には、東大寺を開いた良弁の弟子の徳道が、聖武天皇の勅命により十一面観音像を安置しました。
多くの平安貴族が、その十一面観音の霊験を求め長谷寺を参詣しました。
京に上り心細く過ごしていた玉鬘も、従者の一人に勧められ、初瀬詣とも言われた長谷寺詣に出かけます。
そして玉鬘一行は、長谷寺詣の途中で、玉鬘の母夕顔の侍女だった右近と出会います。
右近は夕顔が亡くなったのち、光源氏に仕えながらも、玉鬘との再会を念じ、初瀬詣に通い続けていたのです。
偶然にも再会を果たした玉鬘と右近は、参詣の途中、初瀬川の前で歌を交わします。
その時の右近の歌がこちらです。
「二もとの杉のたちどを尋ねずはふる川のべに君を見ましや」(二本の杉の立っている長谷寺に参詣しなかったなら、古い川の近くで姫君にお逢いできたでしょうか。)「玉鬘」
右近はこの歌で、玉鬘に出会えた喜びと長谷寺の霊験への感謝を表わしています。
この歌の「二もとの杉」とは、現在も長谷寺の境内にある二本の杉のことです。
この二本の杉は並んで立っているだけでなく、根元が繋がっているそうです。
それゆえ、大切な人同士の縁を伝え、願いと祈りを叶える霊木として、今も大切に祀られています。
1分で出来る「ふふふふろしき~和風リボン包み~」
文庫本や手帳、CDケースなど、四角く平たいものを包むのに適した包みです。
一つの角の部分にリボンを結んだように見え、ギフトラッピングに役立つ包み方です。
ふ、ふ、ふ、ふ、ふろしき!
つつんで、むすんで、おでかけ!(フー!) ふろしき 一枚だけで
ギフトの包みが 出来ます
くるり ぱたんで 真結び
リボン包みは かわいい!
ふ、ふ、ふ、ふろしき!
つつんで むすんで おでかけ!
なんでもできる おどろき!
フロシキブルに ふろしき!(フー!)