日本の衣食住
霜月
七五三の晴れ着
七五三は子どもの健やかな成長を願い、三歳、五歳、七歳で行う行事です。
平安時代中頃、公家の間で行われていた三歳から七、八歳までの男女のお祝いの儀式が起源と言われています。
中世では、男女とも三歳になると、それまで剃っていた髪の毛を伸ばしはじめる「髪置(かみおき)」という儀式が行われるようになりました。
この時の着物には紐が着いていて、帯を使わず簡単に着られるようになっていて、着物の上から被布というベスト状のものを羽織りました。
男子は五歳になると、袴を着ける「着袴(ちゃっこ)の儀」を行いました。
由緒は皇室の「深曽木の儀」であるとも言われますが、武家社会になると、天下を取るという意味で、碁盤の上に立ち吉方を向きながら袴を着用する儀式を行いました。
女子は七歳になると、子ども用とされる紐付きの着物を卒業し、初めて帯を締めて着る着物に替える「帯解き(おびとき)の儀」という儀式を行いました。
七五三行事では、着物や帯、袴などの衣類が、子どもの成長の節目に深い関わりがあることが分かります。
落ち葉焚きの焼き芋
秋が深まり木枯らしが吹くと、木々から枯れ葉朽ち葉が沢山落ちて、あちこちに溜まります。
私の子供の頃は、折々に近所の人たちが集まって落ち葉掃除をし、その落ち葉を集め、公園や空き地で焚き火をしていました。
中でも子供会や町内会の大掃除の後の落ち葉焚きでは、大抵焼き芋をしてもらえたものでした。
焚き火での焼き芋の作り方は至ってシンプル。
サツマイモは町内会で準備してあったり、それぞれ持ち寄ったりします。
これらのサツマイモを濡らした新聞紙で一本一本包み、その上からアルミホイルでしっかりくるんでおきます。
大人が落ち葉の山に火をつけると、初めは勢いよく燃えた後、火が落ち着き、次第に熾火(おきび)の状態になります。
この熾火の中に、用意しておいたサツマイモを押し込みます。
出来上がるまで、20?30分ほどはかかりますが、子どもたちは、焼き芋が出来上がるのをワクワク、そして神妙に待ちました。
落ち葉焚きで焼き上がった焼き芋は、軍手をしないと持てないくらいアツアツ。
焼けて黒ずんだアルミホイルを開くと、温かい湯気とサツマイモの焼き上がった香ばしい香りが上がってくる。
皮を剥くのももどかしく、サツマイモに齧り付くと、火傷しそうなほど熱いけど、ホクホクの優しい甘さが口の中に広がる。
「熱い!」「美味しい!」口々に声を上げながら、子ども達は焼き立ての焼き芋にかぶりついたものでした。
風のない青空の下、落ち葉焚きの炎を見上げながら、焚き火の周りを走り回ったり、焚き火に手を向けて温めながら、近所の人たちのたわいないおしゃべりを聞くともなく聞いていたり。
落ち葉焚きも焼き芋も、子どもの頃の五感全てが覚えている、懐かしい思い出です。
今は町中では殆ど落ち葉焚きは禁止ですが、焼き芋は相変わらず大人気です。
あちこちに焼き芋専門店が出来たり、「やきいもフェス」、「やきいもグランプリ」などイベントも次々生まれています。
深まる秋に、新しい焼き芋にもチャレンジしたいですね。
日本の炬燵(こたつ)
炬燵は、床に置いた枠組みの中に熱源を入れ、上を布団などで覆い、暖を取るものです。
炬燵の起源は室町時代と言われます。
当時は熾火にした囲炉裏に上から灰をかけ、簀子状に作った台を置いた上に衣を被せて温まったようです。
江戸時代になると、囲炉裏の上にやぐらを組み、その上に布団を被せて暖を取るようになり、後には、囲炉裏の代わりに火鉢が用いられるようになると、移動ができるようになります。
明治時代には、正座に馴染めないイギリス人で陶芸家のバーナード・リーチが、床に腰かけて足を下ろせるタイプの腰掛け炬燵を作りました。
これが現在の「掘り炬燵」の元となっています。
大正時代から昭和時代になると、火事や火傷など安全性の問題から、熱源が炭から電気に変わっていきます。
熱源が電気に変わったことで、天板に電気ヒーターをつけられるようになり、現在の炬燵の形が出来ました。
現在ではエアコンや床暖房、暖房器具があり、畳のある家も少なくなりました。
炬燵を使う家庭は少なくなりつつありますが、電気代も安く、家族の団欒の場にもなり、炬燵兼用のダイニングテーブルなど、新しい炬燵も生まれています。
改めて、日本の炬燵の良さを見直してみませんか?
インテリアに風呂敷~テーブルカバー・炬燵掛け~
大判(150cm四方~200cm四方)の風呂敷なら、テーブル全体を覆えるテーブルカバーに使えます。
寒くなれば、炬燵布団の上に掛ける炬燵掛けとしても役立ちます。