長月の和の住まい
日本の住まいの歴史
日本は元々、地震大国の上に自然災害も多い国でした。
人々は住まいをその気候風土に合わせ、時代と共に変化させてきました。
日本の住まいの変遷を代表的な住居と共にふりかえってみます。
竪穴式住居
日本人はもともとは狩猟や採取をして、洞窟で生活していました。
縄文時代後半になると、夫婦や家族などができ、一定の人数の集団となり、田や畑で作物を作るようになります。
こうして作物を作りはじめたことで、田畑のそばで定住する生活となっていきます。
その頃のすまいは、地面に穴を掘り、柱をたて、枠をつくって、萱や葦で屋根を葺いた「竪穴式住居」で、半地下で床はなく土の土間でした。
「竪穴式住居」の中では、火が使われた形跡があり、住まいの中で調理をしていたことがわかります。
高床式住居
弥生時代から稲作がはじまると、米や作物の生産量の違いなどから、貧富や力の差が生まれます。
呪術で人々を支配する者も出てきて、集団の中で人々を統率する支配階級が生まれてきます。
その頃には、収穫した作物を災害や害虫などから守り、収納保管しておくための「高床式倉庫」ができていました。
住まいも庶民が住む「竪穴式住居」とは別に、王や首長などの支配階級の人々は「高床式住居」に住むようになります。
彼ら支配階級の人々は、農作業や煮炊きは仕えるものに任せ、高床式の住まいで過ごしました。
寝殿造り
飛鳥時代、奈良時代と進んでいくと、支配階級の人々の住まいの敷地は、隋や唐を模し広大になり、立派な建物にすむようになります。
平安時代になると、開放的な「寝殿造り」といわれる豪華な住まいに暮らすようになります。
一般的にはます「寝殿」と呼ばれる「主殿」が中心にあり、「寝殿」の東西や北側に「対屋(たいのや)」が配置されました。
基本的に壁も仕切りもなく、必要に応じて、開閉式の建具や御簾で風雨を避け、屏風などで間仕切りをしました。
過ごしやすい季節には自然と触れ合え、優雅に楽しめる住まいだったでしょう。
しかし、すべてに開放的な造りの「寝殿造り」の住まいの冬は、寒さとの闘いであったでしょう。
平安時代になると、地方の庶民はまだ竪穴式住居のこともありましたが、京の都に住む庶民は、竪穴式から、掘立小屋に近いですが平地の住まいに代わっていきました。
書院造
室町時代以降、武士と貴族の住まい方を取り入れた「書院造り」が生まれます。
書院は元々、禅寺の僧侶の居間兼書斎の呼び名でした。
それがやがて畳の間の座敷や床の間、棚などを備えた部屋になっていき、書院を中心に建てられた住宅の様式を書院造りというようになりました。
「書院造り」の特徴は、それまで板敷きが主だった床に畳を敷き詰め、障子や襖で部屋を仕切り、床の間などを設けたことです。
この「書院造り」は、現代の日本間の原型で、代表的な建造物として、銀閣寺東求堂などがあります。
数寄屋造り
「書院造り」が主流の中、安土桃山時代になると、質素で洗練された数寄者好み「数寄屋造り」が生まれます。
数寄(すき)とは和歌や茶の湯などの風流を楽しむことで、「数寄屋」とは「好みにより作った家」のことです。
武士の格式や決まり事を重んじた「書院造り」に対し、「数寄屋造り」は自由で質素ながらも洗練された造りです。
当初は庶民の住宅に使われるようなよくある材料で作られましたが、次第に数寄者のこだわりと職人の優れた技がみられる見事な「茶室」が作られました。
「武家屋敷」と「町家」と「農家」
江戸時代の上級武士たちは、立派な門と玄関を持つ「書院造」を簡略化した「武家屋敷」に住み、豪商や大店の商人たちは、立派な店構えの店と共に大きな屋敷をもつものもありました。
町人たちの住まいの「町家」は、表を店にし裏に住宅が続く住まいで、多くの商人や職人たちは、裏通りの板葺きの屋根と薄い板壁の棟割り長屋に住んでいました。
下級武士たちは警備の役割もあり、町人と共に町家や長屋に住むことがあり、棟割り長屋に住む者もありました。
「農家」の中でも庄屋や豪商は、門を構え広い敷地に大きな家を持ち、部屋を5,6部屋、その中に畳の部屋も持つことが許されていましたが、小作農の住まいは、板張りの部屋1つに土間1つというものでした。
江戸時代は、士農工商の身分制度の違いだけでなく貧富の差で、それぞれの住まいにも差が生まれていました。
「和洋併設住宅」と「木造住宅」
明治時代になると、鎖国が終わり、文明開化で欧米の文化を積極的に取り入れるようになります。
当時の西洋建築の洋館は、社会的地位の高さと物質的な豊かさを示す象徴でした。
しかし、100%全て洋風にするのでなく、客をもてなすのに洋館部分を使用し、実際の生活をする和室を合わせ持つ住宅が多く作られました。
都市の中流家庭の住まいの中心は、基本的に瓦の屋根と縁側のある和室を主とした木造住宅でした。
部屋と部屋の間はふすまで仕切れば個室に、開け放てば大きな広間として使える作りで、それまでの住まいに必ずあった土間はなくなり、板の間の台所が増えました。
第二次世界大戦までは、都市の多くの家庭の住まいは、瓦の屋根に畳の和室を主とした木造住宅だったので、襖で間仕切りして個室として使うことも、取り払って大部屋としても使うことができました。
住まいの近代化
戦後は全国でバラックなどの粗末な仮設住宅が立ち並んでいたが、その後の高度経済成長による復興により、住まいが急速に近代化します。
都心の人口増加で起こる住宅不足を緩和するため、巨大なニュータウンが各地で作られ、鉄筋コンクリートの団地や高層マンションが登場します。
田の字型の間取りにバス・トイレ・キッチンが付いた「団地」の住まいは、当時の庶民には憧れのものでした。
又、それまで大工さんにより個別に作られていた家を、「住宅メーカー」が工業化して均質化して、品質保証付きの一戸建てとして売り出しました。
高度成長と共に、人々は一戸建て、マンション、木造、コンクリート、など、住まいの形も素材も好みのものを選べるようになりました。
令和のすまい
日本だけでなく地球全体が温暖化している現在、人にも環境にも優しい「省エネ住宅」も登場しています。
省エネ住宅とは、断熱や気密性、日射を遮蔽する機能がある住宅です。
省エネにとどまらず、「ZEH住宅(ネット・ゼロ・エネルギー・ハウス」といって、住宅で使うエネルギーより創るエネルギーの方が多い住宅も生まれました。
又、AIを駆使し、空調や照明、冷蔵庫、インターホン、シャッターなどの住宅設備に、通信機能を搭載し、自動認識や制御、遠隔操作を行い、快適に暮らせる「「IoT住宅」も生まれています。
これからの新しい住まいは、AIとつながることで、より便利で快適な生活空間となっていくと思われます。
ただ、そのような住まい方には、必ず電源が確保され、インターネットがつながっていないといけません。
昨今の地震や大雨洪水をはじめ、ひとたび大自然前が猛威を振るえば、私たち人間はなす術はありません。
便利に快適に過ごせる今の住まいと暮らしも、実は当たり前でなく、不確実不安定なエネルギー供給やネット環境の上で成り立っていることを忘れてはならないと思います。
長月のまちかどふろしき 「防災リュックに風呂敷を」イラスト
9月1日は「防災の日」。9月1日は「防災の日」で、9月は防災について考える機会が増えますね。
風呂敷仲間の村田なち子さんが、防災にちなんで、こんなかわいいイラストを描いてくださいました。
防災袋やリュックを準備されておられる方も多いと思いますが、是非、風呂敷も何枚か、出来れば50cm、70cm、100cm四方の風呂敷をそれぞれ最低1枚ずつ入れておかれると重宝します。
50cm四方の小風呂敷は、小物を入れるプチポーチ、ベルトポーチ、帽子、マスク、手甲どに変身します。
70cm四方は衣類や雑貨を入れる小物入れ、バッグにしてフックで書けることも出来るし、オルなどを包んで枕にも。
100cm四方あれば、敷物、目隠し、持ちもの全部包んで簡易リュック、とっさの時には抱っこ紐替わりにできるし、ショールやボレロ、エプロンやサロンにもなります。
もちろん、三角巾や包帯にも使えますので、是非皆様、「備えあれば憂いなし」、防災リュック、防災袋に、風呂敷を入れておいてくださいね。
長月のふろしき「 ふろしきぶる風呂敷 超撥水バージョン 虹色 & 藍色 」
超撥水性の風呂敷なら、水を弾くので濡らしたくないものを包めるし、傘替わりとして雨よけになり、100㎝程度のこの大きさだと7リットルくらい水が運べます。
撥水性だと蒸れますが、この超撥水性素材は通気性があるので蒸れませんし、絞るとシャワーになるのです。
優れた素材の超撥水性のふろしきぶる風呂敷、防災リュックに是非一枚入れておいていただきたいです。