日本の浮世絵を楽しむ8 葛飾北斎
画狂の天才絵師 葛飾北斎

葛飾北斎は江戸の浮世絵師を代表する絵師ですが、その名は日本のみならず、世界で最も有名な芸術家のひとりと言われます。
彼は生前より人気のある浮世絵師でしたが、その生涯を通し、身の回りのことには一切興味がなく、ひたすら絵を描くことに打ち込んだ絵師でした。
画号を30回以上変えたとも言われていて、今回はその代表的な画号に沿って、葛飾北斎の人生を見ていきましょう。
「春朗」時代
北斎は19歳で勝川春章に入門し、「勝川春朗」の雅号で画作を始めます。
彼は錦絵では勝川派らしい役者絵をはじめ、美人画、武者絵、浮絵、など多種多様な画題を手がけ、黄表紙や洒落本などの挿絵も精力的に描きました。
春朗期の終わり頃からは、狩野派、琳派、土佐風、西洋画などを貪欲に学んでいきます。
「俵屋宗理」時代
その後、36歳頃に北斎は勝川派を去り、琳派に加わり、「三代目俵屋宗理」の名を継ぎます。
この時期には、春朗期にはあまり手がけなった裕福な趣味人のための豪華な摺物や狂歌本の挿絵、肉筆画などにも挑戦しています。
画風も一変し、楚々として優美な美人画は、宗理風として評判となりました。
それからは百琳宗理、北斎宗理、宗理改北斎、北斎辰政、不染居北斎、画狂人北斎、九々蜃北斎、可候などの画号を経て。45歳頃、「葛飾北斎」の号を用いるようになります。

葛飾北斎(画狂人北斎)「笠・蕨・土筆」
「葛飾北斎」時代
それまでの多彩な作画に加え、この頃からは、曲亭馬琴や十返舎一九などと組んで読本の挿絵を描くようになります。
北斎はこの分野でも高い技術力や発想力を発揮し、画風は大胆で豪快に変化していき、読本の隆盛に大いに貢献しました。
北斎の精力的な活動は読本挿絵にとどまらず、名所絵や肉筆画など様々な作品で、豊富な画想や構図を展開し、彼の名は江戸中に広まっていきます。
「戴斗(たいと)」時代
「戴斗」に画号を変えた50代には、すでに弟子が約200人に増え、個別に対応が出来なくなりました。
そのため、北斎は「絵手本」や「北斎漫画」などの作成に力を注ぐようになります。
この絵手本でも、彼は従来あるようなありきたりの手本にとどまらず、動きや広がりを感じられるようページを繋いで描いたり、今のアニメを彷彿させる連続した表現法を使ったりと、様々な新しいチャレンジに取り組んでいます。
北斎漫画はこの後内外に大きな影響を与えることになりますが、他にも本格的な鳥瞰図や「東海道名所一覧」や「木曽路名所一覧などを製作しています。
「為一」時代

葛飾北斎(為一)「富嶽三十六景 山下白雨」
北斎が60歳還暦を迎え、画号を「為一」に変えた頃、後妻との娘のお栄(葛飾応為)が婚家から出戻ってきます。
その後は、お栄と共に川柳「柳多留」に参加したり、晩年まで絵も一緒に描くようになります。
北斎は60代後半に脳卒中になりますが、自家製の薬でなんとか回復します。
しかし、回復したのも束の間、後妻のことを亡くしてしまいます。

葛飾北斎(為一)「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」
妻を失ったのちの北斎は、悲しみを吹き飛ばすかのように、生涯のうちでも最も錦絵版画に集中していきます。
この時期に、代表作である「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」「江戸八景」「景勝雪月花」など、名所絵、古典画、花鳥図など、多岐に渡る浮世絵版画が描かれました。

葛飾北斎(為一)「雉子と蛇」
「画狂老人卍」時代
75歳となった北斎は、富士山画の集大成となる「富嶽百景」を出版し、その巻末に「画狂老人卍」と号し、初めて自ら跋文(あとがき)を載せています。
そこには、これまでの半生とこれからの思いが以下のように語られています。
「己六才より物の形状を写の癖ありて、半百の比より数々画図を顕すといへども、七十年前画く所は実に取に足ものなし。
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。
故に八十才にしては益々進み、九十才にして猶其奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)。
百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。
願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし。」
(私は6歳の頃から物の形を写しとる癖があり、50歳の頃から数々の画図を描いてきたが、70歳より前に描いたものは、取るに足らないものだった。
73歳になって、動植物の骨格や成り立ちがわかってきた。
したがって、80歳でますます成長し、90歳でさらにその奥義を極め、100歳で神の域に達するのではなかろうか。
100何十歳となれば、点や骨組みだけで、生きているような感じとなるだろう。
願わくば長寿の君子よ、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。)
北斎は絵師を志してから90歳で亡くなるまで、約70年間ただひたすら絵を描き続け、実に数多くの作品を残しました。
その画風は年ごとに変化を繰り返し、一人の絵師のものとは思えぬほどバラエティに富み、その画力は老境に入ってもなお進化をし続けたのでした。
ただひたすら一心不乱に絵師の道を追求し続けた北斎は、その命が途絶えるその時まで、より上達を望み続け精進し続けた、まさに真に画狂の天才絵師だったのでした。
その北斎の作品は、没後約170年以上を経た今日、日本のみならず世界で益々評価が高くなり、世界で最も偉大で愛される芸術作品のひとつとなっています。
北斎の風呂敷
浮世絵柄の風呂敷は、現在インバウンドで海外からやってくる観光客に人気となっています。
中でも、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の富士山をモチーフにした風呂敷は好まれ、特に「神奈川沖浪裏」柄の波柄は、ジャパンブルーも相まって一番人気だそうです。

葛飾北斎風呂敷 神奈川沖浪裏