日本の浮世絵を楽しむ6 東洲斎写楽
謎の浮世絵師 東洲斎写楽

東洲斎写楽は、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重と共に、四大浮世絵師と呼ばれた浮世絵師です。
しかし、写楽については本名はじめ、生没年も出身地も係累もわからず、謎の絵師とされていました。
写楽は江戸時代、彼と同時期に浮世絵や本の版元として活躍した蔦屋重三郎にその才能を見い出されました。
写楽は蔦重のプロデュースで、それまでの役者絵とは違い、役者の上半身を大きく描いた黒雲母摺の大首絵28枚を、一挙に出版してデビューします。
それまでの役者絵も人気はありましたが、写楽は役者の素顔の特徴や表情をより強調し、役者本人の個性を引き出して描き、たちまち大評判となります。
写楽はそれから10か月の間に145点余りの作品を描き、それらは全て蔦重により出版されていきます。
しかし、彗星のごとく現れ、人気を博した東洲斎写楽は、その鮮烈なデビューから一年足らずで忽然と姿を消してしまったのです。
このことから、写楽は後世まで謎の絵師と言われてきました。

東洲斎写楽「二世大谷鬼次の奴江戸兵衛」
写楽の正体
東洲斎写楽は出自も生没も不明で、長い間謎の絵師とされ、その正体は謎とされてきました。
そもそも、写楽は江戸時代に一瞬は天才浮世絵師として名をはせましたが、他の浮世絵師と同様、その後は長く忘れ去られた存在でした。
ただ明治後期に、ドイツの美術研究者ユリウス・クルトが東洲斎写楽の本格的な研究書を刊行したことで、それ以降ヨーロッパでは、写楽の浮世絵は「芸術品」として高く評価されるようになります。
写楽が海外で高い評価を受けるようになると、日本でも再評価されるようになり、東洲斎写楽の研究が始められていきます。

東洲斎写楽「四世松本幸四郎の畑六郎左衛門」
その後、多くの研究者によって古文書や史料の発見や検証がなされ、今日では写楽の正体はほぼ定まってきました。
写楽と同時期に活躍した文化人や芸術家などの名が挙げられてきましたが、写楽の正体は、阿波藩士で能楽師の斎藤十郎兵衛、との説が有力です。
ただ、斎藤十郎兵衛は実在の人であることは確かですが、史料には矛盾があることもあり、100%確定した説とも言い切れないようです。
まだ不確定なところがある人物像であることが、東洲斎写楽の魅力のひとつでもありましょう。
写楽の四つの活動期間

東洲斎写楽「四世岩井半四郎の乳人重の井」
東洲斎写楽が活動したのは一年にも満たない期間であるのに、その作風はかなり変化がみられ、研究者の間では四つの期間に分けて説明されます。
第一期は、写楽が華々しく登場した1794年(寛政6年)の5月、デビュー作28枚を一気に発表した時期です。
それまでの役者絵は、役者を美化したり、役柄の設定に合わせ、描かれるのが一般的でした。
しかし、写楽は、役者の顔や表情を大胆にデフォルメして描き、役者本人の個性を引き出しました。
又、黒雲母摺(くろきらずり)の背景に、雲母を混ぜた顔料で描いて、描く対象を浮き上がらせて描き、大評判となりました。

東洲斎写楽「中島和田右衛門の丹波屋八右衛門」
第二期は、その年の7~8月で、上半身でなく全身像を描いています。
第三期は、その年の11月と閏(うるう)11月で、それまでは描かなかった背景も描くようになっています。
第四期は、1795年(寛政7年)の1~2月で、歌舞伎の正月興行の絵や「相撲絵」などを描いています。
10か月足らずの間に145点余りの作品を発表した写楽ですが、後世で高い評価を受けているのは、ほぼ第一期のデビュー時の作品です。
第二期以降は作風や画力の違いが見られるので、別人説、大人数での工房説など、未だ謎が残っています。
写楽の風呂敷 「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」柄

東洲斎写楽の代表作「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」という浮世絵を風呂敷にしたものです。
三代目大谷鬼次演ずる江戸兵衛が、奴一平の用金を奪おうと襲いかかる様を描いたものです。
いたものです。
顎を突き出し睨みつける表情と、胸から突き出した両手からは殺気が感じられます。
写楽が使った雲母摺(きらずり)の表現を、この風呂敷ではパール加工を施して、包んだ時にきらりと光るようにしています。