源氏物語の頃の衣食住―12
源氏物語の色―光源氏の鈍色
玉鬘の帖に、光源氏が紫の上に「衣装の色は容姿だけでなく、心情や性格などその人の人間性を表わすものだ」と、語る部分があります。
これはまさに、作者の紫式部の装束の色への思い入れを示したものと言えましょう。
源氏物語は美しく華やかな色彩に彩られていると思いがちですが、実は文中には白や鈍色などの無彩色が多く出てきます。
白は光源氏(源氏物語の頃の衣食住―2 光源氏の白)や、紫の上や宇治の大君などの病床の白装束などで、華やかな色味がないからこその究極の美に使われましたが、白よりも沢山出てくるのは鈍色です。
当時の喪服は黒ではなく鈍色(今でいうグレー)なので、確かに喪に服す場面は多く見られます。
しかし、作者の紫式部はこの鈍色を、単に喪服の色というだけでなく、先に述べた「その人の心情や生活などの人間性」を表わすものとして、使っているように思えます。
室町時代の水墨画の評価で「墨に五彩あり」というものがありますが、紫式部の美意識は、白から墨染めの鈍色までの無彩色に究極の美を見つけたのではないかと感じられます。
紫式部は光源氏にその人生の華やかなる前半は白をまとわせますが、紫の上が亡くなってからのちは鈍色の衣で過ごさせています。
数々の近しい人々の死に次いで、柏木の死、紫の上の死、自らの出家。
鈍色は喪に服すというだけでなく、大切な人を失ったあとの暗く空疎な世界を生きなければならなかった光源氏の虚ろな心情をよく表していると思います。
源氏物語の頃の食―平安時代の病
源氏物語の中では、光源氏がわらわやみ(瘧・現在のマラリア)を病み、北山に加持祈祷に行く場面が出てきます。
平安時代には、天然痘とも呼ばれる疱瘡(ほうそう)や、麻疹(はしか)、などの感染症、寄生虫病も流行ったようです。
現在の脳卒中である中風や、糖尿病である消渇(しょうかち)、脚気、などもありました。
平安時代の人々は病にかかると、僧侶による加持祈祷や陰陽師の禊祓を信じ頼りました。
医師(くすし)もいたようですが、まだ治療法も特効薬もなかった平安時代には、何度も疫病が流行り、人々を苦しめたのでした。
源氏物語の頃の住まい―宇治十帖の宇治
源氏物語54帖のうち、44帖までは光源氏と彼の周りの女君が宮廷を舞台に織りなす物語です。
それに対し、最後の十帖は光源氏の子である薫の君と孫の匂宮と、大君、中君、浮舟という女宮との間で紡がれる悲恋の物語です。
その舞台となるのが、宮廷のある都の南に位置した宇治で、そのため最後の十帖は「宇治十帖」と呼ばれています。
平安時代、宇治は交通の要所で、都から通いやすい距離だったことや、宇治川が流れ風光明媚な場所だったことから、貴族たちの別荘地となりました。
今、宇治で有名な平等院は、光源氏のモデルとも言われる源融の「宇治殿」が別荘を建てたのがはじまりです。
宇治十帖は「橋姫」ではじまり、「夢浮橋」で終わりますが、物語には宇治川が度々登場します。
物語の中には、恋心を川の流れや橋などにたとえて詠んだ和歌が多く見られます。
「宇治橋のながき契りは朽ちせじをあやぶむかたに心さわぐな」(宇治橋のような長き契りは朽ちないものなので、危ぶむ恋の行方に心騒がないでください。) 薫
「絶え間のみ世にはあやふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや」(板敷きの絶え間ばかりの危うい宇治橋の様にしか訪れてくれない貴方様の約束を、朽ちないものと信じろと言うのでしょうか?) 浮舟
薫も匂宮も、光源氏の子孫であり、生まれも育ちも何不自由ないはずなのに、物語は登場人物たちは決して幸せになれそうにない終わり方をします。
悲恋に終わる最終章の題名「夢の浮橋」とは、儚さを表す言葉です。
光源氏のように栄耀栄華を極めた人の人生でさえも、最後は宇治川の流れに川霧と共に儚く消えてゆく木の葉のようなものなのだ。
宇治十帖は、人の一生の終わりの儚さを暗示した物語なのかもしれません。
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