日本の衣食住
卯月
日本の制服
日本の学校制度では、卯月四月が入学式の時期です。
入学式が行われる四月には、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とそれぞれの学び舎に新しい生徒さんが入学してきます。
私服のところもありますが、制服がある学校では、新しい少し大きめの制服を着た新入生が、はにかみながらも笑顔で登園登校する姿が見られます。
ところで学校で制服を着るようになったのはいつからなのでしょう。
学校制度がまだなかった明治時代初期までは制服はなく、学生は和服に学生帽、鞄は風呂敷包みで下駄ばきというのが一般的でした。
最初に制服を取り入れたのは1879年に学習院が海軍式の詰襟制服を採用したのがはじまりだそうです。
当時の洋服は高価だったので、その費用を負担できるのは限られた階層の家庭でしたが、その後、学習院の制服は男子の制服の雛型となっていきます。
1886年には帝国大学で詰め襟学生服にズボン、角帽が採用されました。
当時の大学生は超エリートだったので、大学生が着る学生服はその特権的な地位や身分、所属を示す衣服でもありました。
最高学府で取り入れられた制服は、次第にあこがれの念を持って全国の中高等学校で広まっていきます。
その後、製法の容易さや大量生産ができることなどから、詰め襟の制服は多くの学校で取り入れられていきます。
大正中期頃からは、日本でも洋服が普及し始め、ブレザーや背広型の制服も生まれました。
女子の制服として最初に普及したのは着物に袴でしたが、洋服が取り入れられるようになると、人気を博したのは水兵服であったセーラー服にスカートという組み合わせでした。
第二次世界大戦前後には、国民服着用が義務となり、制服も男子は国民服に戦闘帽、ゲートル、女子はセーラー服にもんぺとなりました。
戦後も当分は物資不足で制服を着用できる生徒は殆ど見られませんでしたが、経済が回復するにつれ、また改めて制服が作られるようになります。
そして経済発展と共に、制服は機能性だけでなくファッション性も重視されるようになります。
1980年代以降、それまで主流だった詰襟学生服やセーラー服から、男女ともにブレザー型が増えていきます。
色も黒や紺などからグレーやキャメルなど明るめ、柄も無地からチェックやストライプ、有名デザイナーによるデザインのものなど、私立女子校を中心にファッショナブルな制服も生まれ、バリエーションが増えました。
昨今は管理教育の見直しや個性重視、制服の高額化などの観点から、制服を廃止する学校も増えています。
ただ、その学校の制服を着たい、制服でその学校を選んだ、という志願理由は根強く、私服通学の高校では志願者が減少しているケースも見られます。
日本の学校の制服は、同じようでも少しずつ違い、どの学校の生徒かわかります。
制服は、その学校の生徒という社会的記号であり、その学校の歴史を語るといっても過言ではないでしょう。
近年では、好みの制服をわざわざ購入して休日におしゃれで着て歩く、人気のある制服は高値で売買されるなど、制服はファッションアイテムにもなっています。
日本国内のみならず、海外でもファッション誌で特集が組まれたり、日本の制服のファッションショーが開催されたりと、制服は日本の衣文化のひとつとしても注目を集めています。
花見弁当
卯月四月の花と言えば桜、桜と言えば花見、花見といえば「お花見弁当」。
古くは平安時代に嵯峨天皇が神泉苑で花見の宴を催し、江戸時代には八代将軍徳川吉宗が飛鳥山や隅田川添いに桜を植え、庶民の娯楽として花見を提唱しました。
江戸時代の「花見弁当」は、取っ手のついた重箱である「提重(さげじゅう)」に、おかずやおにぎりなどを詰めて持ち運びました。
裕福な商人の花見弁当には、かまぼこや卵焼き、刺身やきんとんなど、豊かな食材で作られたおかずが詰められていたことでしょう。
それに対し、落語の「長屋の花見」にある長屋の住人の花見弁当の中身は、大根や沢庵など普段食べているもので、値段の張る御馳走はなかなか入れられなかったようです。
それでも、満開の桜の下で頂く「花見弁当」は、庶民のつましいものであっても、格別な味がしたのではないかと思います。
花見弁当を詰める「提げ重」
「提げ重」とは、携帯しやすくするため、重箱に手提げを付けたお弁当箱です。
重箱だけでなく、酒器や食器なども組み込んだものもあります。
お花見や運動会など戸外の行楽に、大人数分のお弁当を詰め、持ち運びするのに実に便利に出来ていて、昔の人の知恵に改めて感心させられます。
おうちで楽しむ卯月の風呂敷包み
卯月四月には、「花見弁当」を「提げ重」に詰めてお花見に出かけたいもの。
提げ重がない場合は、お花見弁当を重箱やお弁当箱に詰めて、風呂敷で包んで持ち手を作れば、風呂敷提げ重の出来上がり♪