和の暮らし
九月長月
九月 長月
九月の別名で一番使われるのは「長月(ながつき)」ですが、長月の「長」とは何が長いのでしょうか?
旧暦の九月は、新暦では十月上旬から十一月上旬頃にあたります。
現在の日本では秋の深まる季節で、「秋の夜長」という言葉があるように、夜がだんだん長くなる時期です。
そんな季節を人々は「夜長月」と呼んでいたのですが、次第にそれが短い略称になり、「長月」になったというのが有力です。
国文学者の折口信夫によると、九月は五月同様、長雨が続く時期で、「ながめ」という物忌の月と考えられていたそうです。
その「なが」という呼び名から、「長月」となったという説もあります。
他には稲刈月、穂長月、穂刈月のように、稲が実り、稲穂を刈る時期を表す月名もあります。
この頃は秋の花、菊の盛りの時期でもあり、菊月、菊開月、など菊の名前が付く月名もあります。
菊の花が野のあちこちに咲き乱れる様を見て、古の人々は、しみじみ深まる秋を感じていたのでしょう。
白露(はくろ)
近年は9月に入っても暑い日がありますが、それでも朝夕には涼しさを感じるようになります。
この時期になると寒暖の差が大きくなり、昼間の湿った空気が夜になると冷やされます。
これ以上、水分が気体として留まることができない温度にまで下がった時、気体であった空気中の水分は、液体へと変わります。
この水分を露と言います。
夜に降りる夜露、朝に降りる朝露が、野の草に宿り、それが白く光って見えるこの頃を白露と呼びます。
ようやく暑い夏が終わり、秋が訪れてくる気配がしてきます。
新暦では、9月7日頃から9月21日頃までです。
白露の初候(新暦9月7日~11日頃)「草露白し(くさのつゆしろし)」
昼間のまだ暖かい空気も夜間や朝方に冷やされて、草の葉の上に露として宿ります。
その透明な露に朝の光が差すと、キラキラと白く輝き、涼しさを感じさせてくれるようになります。
ところで、中国の陰陽五行説では、白は秋の色。
北原白秋の名前の由来は、この説の「白秋」に由来していると言われています。
草に降りる露の白は、白い米の収穫をはじめ、秋の訪れの象徴でもあります。
中国の五行説の秋を白と呼ぶことは、日本でも自然に取り入れられたのでしょう。
白露の次候(新暦9月12日~16日頃)「鶺鴒鳴く(せきれいなく)」
チチィ、チチィ、と鶺鴒が鳴く頃です、
鶺鴒は小さな鳥なのに、すらりと長い尾を持ち、この尾で地面を叩くような仕草をします。
これを「石叩き」とか「庭叩き」と呼びます。
日本書紀に初めて、イザナギとイザナミは、鶺鴒のこの「石叩き」の動作を見て、契りの交わし方を知ったと記されています。
それで、鶺鴒は「コイオシエドリ」とか、「トツギオシエドリ」等と呼ばれています。
白露の末候(新暦9月17日~22日頃)「玄鳥去る(つばめさる)」
渡り鳥の燕は、春先に訪れ、夏の間、家の軒先に巣を作り、雛を育てます。
雛を育てるために、幾度なく餌を運び、来ては飛び、を繰り返します。
そして雛がしっかり育ったこの時期になると、南に帰って行きます。
日本では古くから「ツバメが巣を作ると縁起が良い」として吉祥の象徴と考え、また害虫を食べてくれる益鳥としても、燕を歓迎してきたものでした。
最近では燕が巣をかけられるような軒下もどんどん少なくなっていますが、燕の巣作りや子育てを見守れる環境が維持されますように、と願っています。
秋分(しゅうぶん)
秋分は春分と同様、昼と夜の長さが同じになる日のことです。
春の春分からは日が長くなり、暑くなる時期ですが、秋の秋分は、次第に日が短くなり、暮れるのも早くなります。
新暦では、9月22日頃から、10月7日頃までです。
秋分の初候(新暦9月22日~27日)「雷乃声を収む(かみなりこえをおさむ)」
青い空に入道雲がもくもくと天高く湧き上がる様子は、まさに夏の風物詩の一つです。
ただし、入道雲が湧いて来たらご用心。
入道雲は雨や雷を呼ぶ雲でもあるのです。
この時期になると、その雷も収まり、空の雲は入道雲から鰯雲になっていきます。
空気もだんだん冴え冴えと澄んでいく頃です。
秋分の次候(新暦9月28日~10月2日頃)「蟄虫戸を坏す(すごもりのむしとをとざす)」
暖かい間、外で活動していた生き物たちが、土の中へ隠れる支度を始める頃です。
ここでいう虫は昆虫だけでなく、蛙や蜥蜴などの小動物も含みます。
虫たちは、啓蟄の頃に土から出て、暖かい間は活動し、寒くなったら動くのを止めるという選択をするのです。
これら巣ごもりをする小さな生き物の、実にエネルギー効率がよい生態には、大いに学ぶところがあるように思います。
秋分の末候(10月3日~7日頃)「水始めて涸る(みずはじめてかれる)」
この「水が涸れる」、というのは、川の水が涸れて水不足というのではありません。
稲刈りのために、田んぼの水を抜く時期を表しています。
田植えから始まり、夏に花を咲かせたのちに、実った穂は重くたわわに垂れ下がるほど実ります。
苦労して育てた稲も、いよいよ収穫の時期となってきます。
重陽の節供
九月九日は重陽の節句です。
中国の陰陽思想では、奇数は「陽」の数字でおめでたいとされました。
しかし、それが重なると邪気が生じると考えられ、それを祓うための行事が生まれました。
三月三日の雛祭り、五月五日の端午の節句などもこの陰陽思想から生まれたもので、この奇数の最大の九が重なる日が重陽です。
この頃は、菊の花が盛りの頃。
宮中では菊の花の美しさを愛で、詩歌を詠み楽しむ「菊花の宴」が行われました。
菊の花は美しいだけでなく、中国で漢の時代より延命効果があり、不老長寿のシンボルだと考えられてきました。
日本には薬草として伝わり、腰痛や胃腸の不調、体調を整える効能があるとされました。
漢方では、菊の蕾は咳止めや婦人病に対して用いられています。
「菊花の宴」では、この菊の効能を使い、菊の花や花びらを浮かべたり浸したりした「菊酒」を飲んで、長寿や健康を祈ったりもしました。
重陽の節句の前夜には、菊花に綿をかぶせ花の露を含ませ、九日の早朝に、その露を含んだ綿で顔や体を拭いました。
これが「菊の着せ綿」という行事です。
菊の花の薬効や不老長寿の力を信じ、このような儀式をすることで、若さと健康を保ち、長寿を願ったということです。
ところで現在の新暦では、九月九日は菊の盛りとはずれています。
また収穫の時期とかぶることもあり、残念ながら近年では、重陽の節句はほとんど見られなくなりました。
なじみが薄くなった重陽の行事ですが、長寿を願い、年配の人を大切にしてきた心は、絶やすことなく受け継いでいきたいものです。
秋分と秋分の日
秋の秋分は春の春分と同様、昼夜の長さが同じになる秋の日のことです。
春分よりも温度は高いし、まだまだ暑い日もありますが、それでも朝夕は涼しくなり、日ごとに日が短くなっていきます。
古来日本では、稲作をはじめる春分の頃に豊作を祈り、収穫の時期の秋分の頃に豊作を祝う自然信仰がありました。
その自然信仰の中に、山の神様である祖霊を春分前に里に迎え、秋分が終わると里から山へお送りする風習がありました。
そこへ中国から伝わった仏教が少しずつ浸透していきます。
祖霊信仰に仏教の教えが重なり、次第に春分は「彼岸」として、秋分は「秋彼岸」として、祖先を供養する日に変わっていきました。
秋分の三日前は「彼岸の入り」、三日後は「彼岸の明け」、秋分・春分はちょうどその中間に位置するので、「彼岸の中日」と呼ばれます。
明治時代には、秋分の中日が「秋季皇霊祭」と定められ、宮中において祖先をまつる日とされました。
そののち秋季皇霊祭は、祖先をうやまい亡くなった人を偲ぶ日として、国民の祝日の「秋分の日」となりました。
秋分の中日「秋分の日」は、春のお彼岸と同じく、ご先祖様を敬いご供養し、偲ぶ日なのです。
十五夜と仲秋の名月とお月見
毎年、12ないしは13回、満月の日がありますが、日本人は特に、この時期の満月を「中秋の名月」や「十五夜」と名付けて、「お月見」を楽しんで来ました。
旧暦8月15日は新暦では9月半ばから10月はじめで、必ずしも満月とは限りませんが、空が澄んだ秋は一年の内で一番月がよく見える時期です。
その昔中国には、月が美しいこの時期に月を見ながら、里芋の収穫を祝い里芋を食べる風習がありました。
その風習が奈良・平安時代に日本に伝来し、貴族たちが観月の宴を催したのが、「お月見」の始まりと言われています。
旧暦8月のちょうど真ん中の日を中秋と呼び、それが15日に当たることから、旧暦8月15日が中秋となり、旧暦8月15日の月は「十五夜」の月とか「中秋の名月」と名付けられました。
因みに「中秋」と同じ発音で、「仲秋」という言葉もあります。
旧暦では春は1月から3月、夏は4月から6月、秋は7月から9月、冬は10月から12月で、季節の真ん中に「仲」をつけて呼びました。
ですので、「仲秋の名月」といえば、旧暦8月の月ということになります。
お月見のお供え
古来、日本では光り輝く月は神そのものと考えられ、平安時代には、月を眺め愛でる行事も生まれました。
月が美しく見える中秋の頃は、秋の収穫の季節でもあります。
月に祈りを捧げる際に供えた収穫物が、次第に米から作ったお団子に変わっていったと思われます。
収穫物の中でも、米は日本人の命を繋いできた貴重な穀物です。
その米から作った上新粉で作るお団子は、人々にとって最上のご馳走であったでしょう。
ところでお団子が丸い理由は、欠けても満る月に、不老不死や豊作の祈りを込めたからとも、中国の月餅に似せたからともいわれています。
旧暦八月の十五夜は芋名月とも呼ばれ、里芋の収穫の時期でもあり、里芋も一緒にお供えをしました。
その名残なのか、関西のお月見団子は紡錘形で漉し餡をのせた、里芋を模したような形状です。
旧暦九月の十三夜は栗や豆の収穫時期なので、栗名月や豆名月とも呼ばれました。
本来は収穫を感謝してのお供えなので、お団子と共にお供えするには、稲穂を飾りたいところですが、この時期、既に稲穂は収穫してなくなっています。
そのため、稲穂が実った形とよく似たススキを代りにお供えするようになったようです。
元々、ススキは茎の中が中空で、神の宿り場と考えられていて、月の神様をお招きする依り代(よりしろ)でもありました。
又、ススキの切り口は鋭いため、厄災や悪霊から収穫物を守ってくれる魔除け厄除けとも考えられていました。
日本の秋の風物詩、「お月見」にも稲作が深く結びついていることが分かります。
野分
九月は台風が多い月です。
「野分」とは台風の古語で、晩夏から秋にかけて頻繁にやってくる台風のことです。
昔は台風のことを「野分(のわき・のわけ)」と呼びました。
今のように天気予報もなかった昔、秋になって突然やってくる「野分」は、驚きと畏れの存在だったと思います。
当時は今のように整地されておらず建物も少ないので、この暴風雨はまさに野の草木を吹き分けてやってくる「野分」だったのですね。
「野分」は大層印象的な気象だったようで、古典文学にもよく登場します。
清少納言は枕草子で「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」と台風の過ぎた後の日が趣深いと書いています。
源氏物語には「野分」という帖があり、野分が通り過ぎる間の様子が細やかに描かれています。
源氏を彩る女性たちの間で揺れ動く夕霧の心が、「野分」で揺さぶられる草木の様子にたとえられているように感じさせる帖です。
大きな災害をもたらすこともある「野分」ですが、台風が来ることで、沢山の雨を降らせ、国土を潤し、海をかきまぜ、生態系のバランスをとってきたとも言えるのだそうです。
しかし、近年の予想を超える雨量は大きな災害を引き起こすこともあり、警戒や用心も必要で、とても「野分」のようなレベルではありません。
「野分」という言葉が体感できるような「にほんのくらし」に戻るには、私達ひとりひとりが環境について、改めて考えてみることが必要かもしれません。
敬老の日
九月の第三月曜日は「敬老の日」。
人生の先輩であるお年寄りを敬い、長寿を祝う日です。
「敬老の日」は元々「としよりの日」として昭和29年に制定されました。
しかし、「としより」よりはもっといい呼び名を、ということで、昭和39年には「敬老の日」と変更されました。
昭和41年には、「敬老の日」は、老人を敬愛し長寿を祝う日として、国民の祝日となりました。
この「敬老の日」という名の由来として、有力な説がいくつかあります。
ひとつは「聖徳太子説」です。
聖徳太子は大阪に四天王寺を建てた時、四天王の名前に合わせて、敬田院・ 悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置しました。
この中の悲田院は、孤児院や老人ホームのような施設です。
この悲田院が誕生したのが9月15日であったため、この日が選ばれたという話が語り継がれています。
それから「養老の滝」に因んだ説があります。
元正天皇が717年に「万病を癒す薬の滝」と言われていた、岐阜の養老の滝へ行幸されました。
この養老の滝には、父親思いの息子が老いた父に酒を飲ませたいと願ったところ、霊泉から酒がわいたという故事がありました。
この親孝行の息子の話から、全国的に9月中旬頃に地域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが慣わしになり、そこで9月15日を敬老の日に定めたと言われています。
因みに、平成14年までは敬老の日は毎年9月15日でしたが、ハッピーマンデー制度により9月の第三月曜日に変更になりました。
父の日や母の日は外国から伝わったものですが、「敬老の日」は日本で生まれたものです。
改めて「敬老の日」の意味を考え、長年にわたり、社会や家庭を支えてくれたお年寄りたちに感謝し、長寿を祝いたいですね。
おうちで楽しむ長月の風呂敷タペストリ―「お月見うさぎ柄風呂敷」
うさぎがお餅を搗いて捏ねて丸めて、月見団子の出来あがり。
十五夜は仲秋の名月をひととき眺め、頑張ってくれたうさぎさん達と一緒に、月見団子をいただきましょう。