和の暮らし
四月卯月
四月 卯月
四月の別名は「卯月」。
卯の花が咲く月だから「卯の花月」、というのが略されて「卯月」になったということです。
他には「花残月」「植月」「孟夏」「始夏」「夏初月」などがあります。
そろそろ春の花の時期が終わり、夏が近づく時期なのですね。
ところで卯の花はどんな花か、ご存知ですか?
卯の花は、ユキノシタ科ウツギ属のウツギという落葉低木で、この時期、枝垂れの枝に真っ白い小さな花が沢山群れ咲きます。
その様子は歌曲「夏は来ぬ」に「♪卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて♪」と詠われています。
卯の花には香りはないので、この歌詞の「匂う」は、匂うほどに白く咲き乱れている様子を表しているといわれています。
ところで、卯の花と聞くと、花より食べ物の「おから」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?
「おから」は豆腐を作る際に豆乳を絞って出来る搾りかすのことです。
白い見た目は卯の花によく似ているし、「かす」は「殻(から)」とも呼びます。
ここから、この搾りかすを「おから」と呼ぶようになりました。
「おから」の「から」は「空」とも書け、「空木(ウツギ)」に字も見た目も通ずることから、 「おから」は「卯の花」とも呼ばれるようになったようです。
花の名が月の名にもなり、食べ物の名前にもなる。
連想ゲームだったり、掛詞だったり、日本人は言葉をとても豊かな感性で使ってきたことがわかります。
清明(せいめい)
江戸時代の『こよみ便覧』にはこの季節のことを「万物(ばんぶつ)発して(はっして)清浄明潔(しょうじょうめいけつ)なれば、 此芽(このめ)は何の草としれるなり」と書かれています。
万物が目覚め、草木は芽吹き、その種類が分かるようになる時期という意味です。
陽の光が明るく輝き、全てのものが生き生きと成長しはじめる、まさに清々しい季節です。
新暦では、4月4日頃から19日頃です。
清明の初候(新暦4月4日~8日頃)「玄鳥至る(つばめきたる)」
冬を暖かい南の地方で過ごした燕が、日本に日本に渡って来る頃です。
「玄鳥」の玄とは黒いという意味で、玄鳥とは、「つばくろ」、燕のことです。
燕は縁起がよい鳥とされ、昔から「燕が巣をかけるとその家に幸せが訪れる」という言い伝えもあります。
清明の次候(新暦4月9日~13日頃)「鴻雁北へかえる(がんきたへかえる))」
暖かくなって、水鳥の雁が北へ帰って行く頃です。
雁は夏場はシベリアへ渡り、秋になると日本へ帰って来ます。
これら渡り鳥の群れが北の海を渡っていく春先の北国の曇り空のことを鳥曇、羽ばたく羽音を鳥風と呼ぶそうです。
清明の末候(新暦4月14日~19日頃)「虹始めて見る(にじはじめてあらわる)」
春になって、雨の後に虹が出始める頃。
春の虹は淡くてすぐ消えがちですが、若葉が萌える山にかかる虹は実に幻想的で美しいものです。
ところで「虹」という漢字は、蛇を表す「虫」と貫くという意の「工」で出来ています。
古代中国では、竜になる大蛇が大空を貫く時に作られるものが「にじ」と考えられていたことから、「虹」という字となったと言われています。
穀雨
「穀雨」とは、江戸時代の「こよみ便覧」の「百穀春雨(雨が降って百穀を潤す)」から生まれた言葉です。
この頃になると、やわらかい春雨が降る日が多くなります。
この春の雨は恵みの雨として、全ての作物草木の芽を出させる手助けとなるため、種蒔きなど、農作業を始める目安の時期とされています。
それだけにこの時期の雨には様々な名前がついています。
草木を潤す雨は「甘雨」、穀物の成長を促す雨は「瑞雨」、開花を促す「催花雨」、春をつけた「春雨」「春時雨」、花の名をつけた「桜雨」「花の雨」「花時雨」「催花雨」。
花の中でも菜の花が咲く時期の雨は「菜種梅雨」と呼ばれています。
菜の花の別名は菜種で、菜の花の黄色と黄緑のコントラストが、雨の日には一層鮮やかに生き生きと映えるのが目に浮かびます。
長く続く春雨は「春霖」、「卯の花くだし」とも言います。
「卯の花くだし」とは、うつぎの花が腐ってしまいそうな程、長く続く雨ということです。
しとしと降る雨が長く続くと少々気重なりますが、春の雨は百穀の雨。
つまりは私たちが生きるためにも必要な命を育む雨ともいえるのです。
そう考えると、春の雨は実に有難い恵みの雨と言えますね。
新暦では4月20日頃から4月24日頃です。
穀雨の初候(新暦4月20日~24日頃)「葭始めて生ず(あしはじめてしょうず)」
春の水辺の葭が芽吹く頃です。
葭の新芽は別名「葦牙(あしかび)」とも言います。
柔らかい土からとんがった葭の芽が川面から顔を出す様を牙のように見立てた言葉です。
穀雨の次候(新暦4月25日~29日)「霜止んで苗出ず(しもやんでなえいず)」
この時期になると霜が降りる心配はなくなります。
昨年の秋に収穫された籾が、今年の稲の種として芽吹き青々と伸びていきます。
いよいよ日本人の命を育んできた稲の田植えの準備の始まりです。
穀雨の末候(新4月30日~5月4日頃)「牡丹華さく(ぼたんはなさく)」
牡丹の花が咲きだす季節です。
薬草として中国から伝来した牡丹ですが、平安時代には宮廷や寺院で観賞用として栽培されるようになりました。
その艶やかで華やかな姿から、「富貴草」「百花王」「花王」「花神」「天香国色」など、その美しさを褒め称える名が沢山つきました。
潅仏会(かんぶつえ)
四月八日はお釈迦様のお生まれになった日。
仏性会(ぶっしょうえ)、誕生会(たんじょうえ)、また、「花まつり」ともいわれます。
この日、お寺では花で飾ったお堂、花御堂(はなみどう)を設け、そこに安置した仏様に甘茶を灌ぎます。
お釈迦様がお生まれになった時、天に九匹の龍が現れ、甘露の雨が降り灌いだ、という伝説が残っています。
この甘露の雨の代わりとして、甘茶をかけるようになったということです。
咲きにおう花の季節に、お釈迦様のお誕生を祝いながら、花も愛でられる心和らぐ行事です。
十三参り
子どもたちが数えで十三歳になった年の旧暦三月十三日(今では四月十三日)に、親と共に氏神様やお寺に参る行事です。
平安時代の初めに清和天皇が数えの十三歳になった年に、京都嵯峨の虚空蔵法輪寺へ勅願法要を催したのが、始まりと言われています。
虚空蔵法輪寺の虚空蔵菩薩は、十三番目に誕生した智恵と福徳を司る菩薩とされていて、十三参りは別名、知恵詣りとか知恵もらいとも言います。
十三詣りはそれらの風習と、虚空蔵菩薩の縁日の十三日とが結びついたものと考えられます。
数え年の十三歳は、十二支が一巡し、生まれ年に戻った年であり、厄年でもありました。
関東ではなじみが薄いですが、関西では七五三同様、子供の健やかな成長の行事として行われました。
昔は十三歳と言えば女子はお嫁に行く人もあり、男子も元服が近い年です。
もうすぐ大人として巣立っていく我が子に、知恵と福徳を授けてもらいたいという、親の願いが込められた行事です。
日本人と桜
年中行事ではないのですが、日本の春の行事として、もはやお花見なしでは過ごせないのではないでしょうか?
三月に入るとすぐに、桜の開花予想が天気予報で取り上げられます。
桜の開花は早いのか遅いのか、咲いている期間は長いのか短いのか、日本中の人々が待っていると言っても過言ではないくらい、 桜の花が開くのを待ち望んでいます。
日本人はいつからこれほど桜を愛で、花見というものをするようになったのでしょう?
日本の花と言えば桜、とお思いの方が多いかもしれませんが、実は古くはそうではありませんでした。
和歌で「花」といえば「桜」を指すと言いますが、実はそれは古今和歌集以降なのだそうなのです。
これは花が詠まれた和歌の数でうかがい知ることができます。
古今和歌集で「桜」が詠まれた歌は75首、「梅」が詠まれた歌は22首です。
しかし万葉集では「桜」が詠まれた歌は40首で、「梅」が118首とされています。
「桜」と「梅」の逆転現象はいつ起こったのでしょうか?
奈良の平城京から京都の平安京へ遷都したされた際、紫宸殿に植えられたのは梅でした。
紫宸殿は朝賀や公事を行う、内裏の中で最も目立つ場所です。
平安初期はまだ花と言えば「梅」だったのです。
しかし、この紫宸殿の梅が桜に置き換えられる時がやってきます。
通説では承和年間に左近の梅が枯れた時、梅から桜に植えられたと伝えられています。
また、村上天皇の天徳4年(960年)に内裏が全焼した後、という説もあります。
どちらにしても、梅が桜に植えかえられ、
「左近の梅」が「左近の桜」になった時が、桜が日本の花の代名詞になった瞬間でもありました。
日本人とお花見
日本書紀」に嵯峨天皇が「花宴の節」を催したとあり、これが記録に残る最初の花見とされています。
平安中期から天皇主催の定例行事として花見が行われるようになり、貴族の間でも盛ん行われました。
鎌倉時代以降には、貴族の花見の風習は武士階級にもに伝わり、武士の間でも行われるようになります。
豊臣秀吉の吉野の花見や醍醐の花見は歴史に残る大規模なものでした。
江戸時代になると庶民にも花見の風習は広まっていきます。
これは八代将軍徳川吉宗のおかげと言われています。
吉宗は、隅田川の桜堤、飛鳥山、御殿山などに桜を植えさせ、飲食店まで用意させ、花見を奨励しました。
江戸時代は火事が多く、それも世の中に不満を持つ者の放火も多かったと言います。
花見の名所を作ることの目的の一つは庶民の憂さ晴らしや娯楽の場を提供することでした。
又、治水対策の隅田川の堤は、花見の客が沢山来ることで、結果、人々の足で踏み固めてもらえることになりました。
飛鳥山は鷹狩場で、農民の田畑を荒らすことへの返礼として、花見客が農民たちに収入をもたらす方策となりました。
まさに一石二鳥の名案で、吉宗が作った江戸の花見の名所は今も私たちを楽しませてくれています。
明治の文明開化の時代は、大名屋敷や庭園が取り壊され、桜の木も沢山倒されました。
それを惜しんだ植木職人の高木孫右衛門は、生き残った桜を自身の庭に集め根づかせ、84種を保存します。
その後、その桜たちを使い、植木職人の清水謙吾はじめ多くの人の尽力で、荒川堤に桜並木が作られます。
又、その桜たちは新宿御苑や小石川植物園など各地の研究施設に移植され研究が続けらました。
現在、私たちが毎年美しい桜を見ることが出来るのも、これら多くの先人たちの様々な取り組みのお陰です。
今年のお花見は感謝の気持ちで桜を愛でたいですね。
「新年度」と桜
一年の始まりは一月一日ですが、学校や会社など私たちの生活の多くの場面で年が始まる「新年度」は、卯月四月です。
この「年度」というのは、特定の目的のために規定された一年の区切りです。
学校などでの学年の切り替わりを「学校年度」、官公庁が予算を執行するために用いる期間を「会計年度」、と言います。
他にも、九月から八月までを区切る「いも年度」や、七月から六月までを区切りとした「麦年度」など、農作物の収穫に合わせた「年度」もあります。
江戸時代の寺子屋の頃は、随時入学出来、進学の時期も各々の進度に合わせていたようで、「学校年度」はありませんでした。
ただ、明治になると西欧にならい、大学や高等教育は九月入学になります。
しかし、国の経済力を高め、富国強兵を進めていく中、会計年度が四月から三月までとなり、軍隊の入隊開始も四月になります。
このようなことから、小学校や師範学校の入学時期も四月となり、大正時代には高校も大学も四月入学となります。
現在のように「新年度」が四月からになったのは、このような経緯の結果です。
多くの人にとって、人生の新しいスタートを切る「新年度」が、日本人が心待ちにしている桜の開花の頃になったのは、なんと素敵な偶然でしょう。
新年度の頃のほんの短い間に開花し、咲き誇り、あっという間に舞い散ってしまう桜は、新年度という人々の門出を祝う時だけのために、一年の殆どの時間を準備に費やしてくれているのかもしれません。
おうちで楽しむ卯月の風呂敷タペストリー
実際の桜が散った後も満開の枝垂れ桜がおうちの中で楽しめる風呂敷です。