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5月 立夏・小満 立夏(りっか) 二十四節気では、一年を春夏秋冬四つの季節に分けています。 その始まりに「立つ」という名をつけ、春は「立春」、夏は「立夏」、秋は「立秋」、冬は「立冬」と名付けました。 心地よい爽やかな風が吹き、木立の緑が目に冴え冴えと映ってきます。 「立夏」はまさに夏のはじまりの時期です。 新暦では、5月5日頃から5月20日までです。 立夏の初候(新暦5月5日~9日頃) 「蛙始めて鳴く(かえるはじめてなく)」 田んぼや野原で蛙が威勢よく鳴き始める頃です。 これは雄が雌に対して求愛して鳴く声です。 古来稲作と共に生きてきた私たち日本人にとっては、蛙は水田や畔に生息するなじみ深い生き物です。 立夏の次候(5月10日~14日頃) 「蚯蚓出る(みみずいずる)」 土の中に籠っていたみみずも土の上に顔を出してくる頃です。 釣りの餌くらいと軽んじられている存在のみみずですが、実は自然界では素晴らしい役割を果たします。 土の中で動いて土を掘り起こし耕し、食べて排泄することで、土を腐植土として豊かにしてくれるのです。 みみずは土を育み、ひいては生き物を育んでくれています。 立夏の末候(新暦5月15日~20日頃) 「竹笋生ず(たけのこしょうず)」 筍が生える時期、ということですが、筍の旬はもっと前の春先の気がしませんか? 実は今なじみのある筍は孟宗竹で、中国から江戸時代に伝わった外来種で、もっと前から生えてきます。 この候の筍は、孟宗竹とは違い、日本原産の真竹のことのようです。 因みに「筍」という字は日本で出来た国字です。 竹に旬と書いて「筍」とは、まさに季節を感じて生きてきた日本人らしい字です。 小満(しょうまん) 小満は、二十四節気の中ではなじみの薄いものだと思いますが、小さな命の息遣いが、天地に満ち満ちていく様子から、 小満と名付けられたということです。 この頃から太陽の光が燦々とさし、陽気がよくなり、生きとし生けるものの気が満ち満ちていきます。 新暦で5月21日頃から6月4日頃です。 小満の初候(新暦5月21日~25日頃) 「蚕起きて桑を食う(かいこおきてくわをくう)」 蚕が卵から孵り、桑の葉を食べて育っていく頃です。 蚕は桑を大層なスピードで食べ、その食む音は雨の音のように盛大です。 桑を食べては四度の脱皮を繰り返し、最期に繭を作ります。 この繭からとれる生糸は、明治時代から昭和初期まで日本の最大の輸出品でした。 日本の近代化は、蚕が支えていたと言っても過言ではないのです。 小満の次候(新暦5月25日~5月30日) 「紅花栄う(べにばなさかう)」 紅花が咲き乱れる頃です。 名前は紅花ですが、黄色い花を咲かせます。 その花弁から染料が取れるため、広く全国で栽培され、特に最上川流域で生産されました。 最高級の紅は、江戸時代には「紅一匁(もんめ)金一匁」と言われるほど高価なものでした。 小満の末候(6月1日~4日頃) 「麦秋至る(ばくしゅういたる)」 麦の穂が実り、麦畑には青々とした青々とした眺めが広がります。 この時期が麦にとっては収穫の秋であることから、麦秋と名付けられました。 日本の年中行事 端午の節句と邪気払い 端午の「端」は、はしっこ、という意味で、端午は、月の始めの牛(うし)の日ということです。 漢代以後に「ご」の音が重なる五月五日になったといわれています。 今でこそ、五月五日は端午の節句として子供の成長を祈るお祝いの行事ですが、古代の中国では、五月は悪月とされていました。 古代中国では、五月のこの頃は雨が多く、天災や戦乱も重なった時期だったようで、禁忌が多く身を慎む月とされました。 それで、五月五日は、無病息災を願う邪気払い、魔除けの行事が色々行われました。 野に出て蓬や菖蒲の葉を摘み、家の門口に飾ったり、龍舟(ドラゴンボート)競争を行ったり、粽(ちまき)を食べたりと、 地方により様々な行事を行ったようです。 その中でも、粽やドラゴンボート競走には、ある伝説が語り継がれています。 楚の政治家で詩人でもあった屈原は、秦の甘言にそそのかされそうになった楚の懐王を諫めましたが、受け入れられませんでした。 その結果、懐王は秦に捕らえられ、楚は秦の手に落ちてしまいます。 楚の行く末に絶望した屈原は、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に身を投げたのでした。 屈原の霊を鎮め、また亡骸が魚に食われないよう、人々が竹の筒や笹の葉に米を入れて川に投げ込んだことが、現在の粽の元と言われています。 又、入水した屈原を助けようと先を争い舟を出したという故事が、ドラゴンボート競走の由来とされています。 日本に端午の節句が伝えられたのは、奈良時代と言われています。 宮中では、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄を避けるために、野に出て草を踏み、持ち帰った蓬や菖蒲で人形を作り、 門戸や軒下に飾ったり、薬草で薬湯に入ったり、薬草酒を飲んだりしました。 ところで日本でも古くから、5月は物忌みの月で、「さつき忌み」という風習がありました。 この時期、日本では田植えが始まる時期です。 田植えをする早乙女と呼ばれる若い女性は、田の神を迎える前に不浄を避け、小屋に籠り、穢れを払う「五月忌み」をする習慣がありました。 中国から伝わった端午の「邪気払い」は、日本のこの「五月忌み」と容易に結びつき、行われるようになったと思われます。 ということは、日本の端午の節句の由来は女性のものだったということです。 それでは何時それが、男の子の節句に変化したのでしょうか? それは武家が時代の主役となった鎌倉時代からのようです。 端午の節句につきものの「菖蒲」は「尚武(武を尊ぶ)」と読めることから、武家社会では端午の節句を男子の節句として行うようになりました。 江戸時代になると、五月五日は五節句として式日となり、武家では男子が生まれると門前に幟旗を立て、祝うようになります。 この行事は庶民にも広がっていきますが、武家以外には幟旗は許されませんでした。 代りに庶民は、中国の故事の「鯉の滝登り」にあやかり、鯉のぼりを立てるようになりました。 庶民は武家で飾られる鎧兜や武者人形なども紙で模したりして飾り、それらがのちに現在の五月人形になりました。 こうして、本来は邪気払いであり、女性のものであった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る日になりました。 邪気払いで使われた菖蒲は菖蒲湯に、粽はお祝いのお菓子に、幟旗は鯉のぼりに、実に上手に日本の年中行事に取り入れられています。 日本人が外からの文化をいかに柔軟に日本の風習に取り入れているかが、端午の節句には実に豊かに興味深く見られます。 五月のしつらい 立夏の末候「竹笋生ず」より、筍や緑豊かな植物、そして邪気払いの赤いものを盛って。 目で楽しんだ後は舌で大いに楽しみましょう。 五月の風呂敷 鯉のぼりの絵と「こい」という字と絶妙なバランスの構図があまりに素敵で手に入れました。 後で見たら、人間国宝の芹沢銈介さんの五月の節句の鯉のぼり柄の小風呂敷です。 小さな小風呂敷の中で、鯉のぼりが悠々と風に泳ぎながら、「こい」としてしっかりと登っていっています。 <<次回のはなし 前回のはなし>>
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