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日本最古のお風呂の始まりは、寺院の施浴なんです。
6世紀に渡来した仏教では、沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事と考えました。
奈良の東大寺や法華寺には、今でも大湯屋や浴堂が残っています。
当時、家々には浴室も無く銭湯も無かった時代寺院の施浴は、庶民にとって、嬉しい施しでした。
平安時代の末には京都に銭湯の走りともいえる湯屋が登場します。
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鎌倉・室町時代の風呂ふるまい
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施浴の習慣は、鎌倉時代になるともっと盛んになり、1192年源頼朝が後白河上皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や、
幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴は有名です。この記述は『吾妻鏡』にも見られます。
室町時代に入っても、幕府や寺院により施浴の習慣は受継がれ、施浴は「功徳風呂」と呼ばれ、
一定の日にちを定めて庶民にふるまわれました。施浴の習慣も個人にも広がり、
将軍足利義政夫人の日野富子は、毎年末に両親追福の風呂をもよおし、識者たちを招待。
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その際、風呂や食事をふるまったのは有名です。
このころから、人を招いて遊ぶことを、「風呂」というようになり、様々な趣向が凝らされ、浴後には茶の湯や、
酒食がふるまわれました。これがいわゆる「風呂ふるまい」で、庶民階級でも裕福な家は、近所の人々に風呂をふるまったりしていました。
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江戸時代の風呂
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江戸時代に始めて銭湯が出来たのは、1591年(天正19年)伊勢与市という者が、
銭亀橋のほとりに銭湯風呂を建てたのが始まりと文献にあります。それが、慶長年間の終わり(17世紀)には、
「町ごとに風呂あり」といわれるほど広がります。
江戸時代の銭湯は、朝からわかして、夕方七つ(午後四時)の合図で終わります。銭湯は上下の別なく
裸の付き合いが出来る庶民の憩いの場所となりました。
やがて、銭湯で湯茶のサービスをするようになって、
湯女が大活躍します。
この湯女たち昼は、客の背中を流していますが、夕方四時を境に、客をもてなします。
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というわけで、湯女風呂は、大評判となり、栄える一方、全盛期は、吉原遊郭がさびれるほどの賑わいだったといいます
この湯女風呂も、震災が引き金となって、自然消滅します。
しかし、銭湯は、相変わらず、江戸庶民のいこいの場として存在しました。
「二階風呂」は町のサロンといった雰囲気で、浴客は、銭湯の2階ある広間に上がり、
茶を飲んだり、お菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しんだりしました。
なんだか、現代となんら変わっていないと思いませんか。
江戸の銭湯は混浴で、明治二十三年、子供でも七歳以上の混浴は禁止という法令が出るまで混浴は無くなりませんでした。
このような銭湯も、現在では、家庭に浴室があるのが常識となり、少しずつ数が減っています。
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